秩父妙見信仰は桓武平氏の末流平良文に始まるといわれています。 伝説によれば兄国香と戦った良文は、群馬県染谷川の戦で敗戦の憂目をみるところ、妙見菩薩に助けられて勝利を得たといわれています。
これを機会に良文は妙見さまを信仰し、秩父の宮地に妙見宮を建てたといわれています。(一説には、孫にあたる将恒が秩父にもたらしたともいわれている。諸説あり)
伝承によれば初め、廣見寺の南側、通称「音窪」の地に鎮座し、時代を経て宮地の平地に妙見宮が建てられたと思われます。 その他は、何所か定説はありませんが、いわゆる宮地妙見は現在の廣見寺の敷地に建てられたと考えられます。 何故かといえば、この地は寺院を建てるのに最もふさわしい所だからです。 一般に寺院は山を背負い南面して建てる事が理想とされています。唯、旧秩父市内の地形を考えると南北に荒川が流れており、東西に河岸段丘が横たわっています。山を背負い寺を建てるには東面か西面に建てる事になります。しかし、唯一南面且つ山を背負える場所があります。つまり、この地廣見寺の敷地内であります。そして真南には霊峰武甲山がある場所でもあります。武甲山は、別名妙見山とも称し、山全体を妙見さまのご神体と考えることもでき、妙見さまの遙拝所として建てられたとも考える事ができます。 現在は、秩父の街の方を向いて建てられていますが、往古は武甲山を向いて建てられていた可能性があります。
この宮地妙見は、嘉禎元年(1235)秩父神社が落雷によって焼失すると、妙見さまは秩父神社に合祀され、以来秩父妙見宮として秩父の民の信仰を受ける事になるのです。 この150年後、主のいなくなった宮地妙見宮の敷地内に廣見寺が建てられるのです。廣見の見は妙見の見であり、妙見宮の跡地ということから妙見菩薩を鎮守として祀っています。 |