廣見寺の歴史

廣見寺の開創と本寺正法寺

本寺正法寺本堂(国指定重要文化財)

本寺正法寺本堂
(国指定重要文化財)


正法寺 山門

正法寺 山門

廣見寺は、明徳2年(1391)天光良産てんこうりょうさん禅師によって開かれた、秩父地方の曹洞宗最古の寺であります。

天光良産てんこうりょうさん禅師は、曹洞宗第三の本山といわれる岩手県奥州市にある正法寺しょうぼうじ二世 月泉良印げっせんりょういん禅師の弟子で、その縁によって正法寺しょうぼうじ を本寺としています。

正法寺しょうぼうじは、大本山総持寺2世 峨山がさん禅師の一番弟子 無底良韶むていりょうしょう禅師が貞和4年(1348)に開かれた俗に東北の本山といわれる東北地方屈指の名刹です。無底良韶むていりょうしょう禅師は、住山14年にして遷化し、2代は兄弟弟子の月泉げっせん禅師が住職となり、正法寺しょうぼうじ発展に寄与します。

月泉げっせん禅師には、44人の弟子がおりその16番目の弟子が、天光良産てんこうりょうさん禅師であります。

2世 東雄朔方とうゆうさくほう大和尚と3世 端山守的たんざんしゅてき大和尚の活躍

曹洞宗寺院系譜

曹洞宗寺院系譜


末寺筆頭 源蔵寺

末寺筆頭 源蔵寺


札所十三番 慈眼寺

札所十三番 慈眼寺


札所一番 四萬部寺

札所一番 四萬部寺

廣見寺には、江戸時代末まで34の末寺、5の孫末寺がありました。その中、15ヶ寺がこの2人によって開かれています。

東雄とうゆう大和尚は、
・ 源蔵寺(大野原)
・ 龍石寺(大畑町 札所19番)
・ 慈眼寺(東町 札所13番)
・ 蔵福寺(番場町 札所15番 廃寺)
・ 大慈寺(横瀬町 札所10番)
・ 浄光寺(旧荒川村)
・ 円通寺(旧荒川村)
・ 阿弥陀寺(旧荒川村)

端山たんざん大和尚は、
・ 法雲寺(黒谷)
・ 妙音寺(栃谷 現四萬部寺 札所1番)
・ 瑞岩寺(黒谷)
・ 泉福寺(栃谷)
・ 宗福寺(大畑)
・ 満光寺(中町 廃寺)
・ 向澤院(旧荒川村)
を開かれました。

この15ヶ寺が中心となり、廣見寺末寺が秩父市を中心に横瀬町、旧荒川村に伸張していきました。

戦国時代信玄焼きと徳川家康公の関東入府

御朱印箱

御朱印箱


御朱印状

御朱印状

天文15年(1546)北条氏康は、俗に言う「川越夜戦」によって旧勢力上杉氏を滅ぼし、関東の盟主となりました。

秩父の武士団もほとんどが北条氏の支配下になり、寄居鉢形城主 北条氏邦の家臣となりました。

永禄12年(1569)甲州武田信玄の秩父侵入が行なわれ、廣見寺をはじめ、秩父神社が焼き尽くされました。

天正18年(1590)、徳川家康公は、秀吉の命により関東に移封されます。翌年廣見寺は徳川家より10石の朱印地しゅいんちを贈わりました。

同年に今宮坊(現今宮神社)10石、清泉寺(旧吉田町)5石、金剛院(旧吉田町)3石、光源院(小鹿野町)3石、光明寺(山田)3石が与えられました。

石数からも廣見寺が筆頭の寺院であったことが窺えます。

坂東観音堂の建立

旧坂東観音跡地

坂東観音堂跡地

寄付帳

寄付帳

坂東西国堂

坂東西国堂

正徳4年(1714)、秩父34所観音は、甲午歳きのえうまどし総開帳の年に当たり、廣見寺は坂東33観音を日野沢大通院は西国33観音をお祀りするお堂を建立し、総開帳事業の支援をしました。 当寺にその時の寄付帳が現存していますが、奉納者はすべて江戸の町人であり、秩父の観音信仰を江戸の町人が支えていたことが窺えます。

観音堂には、現在の大畑町奥村米店の南側、札所18番から19番への遍路道に建立されました。

しかし、明治の廃仏毀釈はいぶつきしゃくにより廃寺になり、33体の観音像は境内坐禅堂内に仮安置されました。その後、大正2年に火災にあい、観音像は全て消失してしまいました。

これを憂いた30世 大宏だいこう和尚は昭和34年(1959)寄付者を募り、33体の観音像を門前妙見堂もんぜんみょうけんどう内に祀りました。

それから50年後の平成27年、現住職 廣文こうぶん和尚の発願により、本堂西側に坂東西国堂が完成し、妙見堂内の観音像を遷座せんざさせ、新たに西国33観音を奉祀し、66観音が一堂に会する新霊場を創出しました。

清泉寺との本末争い

関三刹裁許状

関三刹裁許状

寺宝 月泉禅師伝衣

寺宝 月泉禅師伝衣

6世 天秀彭盛てんしゅうほうせい大和尚が、文禄2年(1593)遷化されると、彭盛ほうせいさまには得法の弟子がおらず、旧吉田町清泉寺4世 清翁全吉せいおうぜんきつ大和尚の法を照月全達しょうげつぜんたつ大和尚が7世となり、廣見寺に入りました。以来約150年間清泉寺の配下におかれる事になりました。

延享2年(1746)15世 月珊春明げっさんしゅんみょう大和尚は、幕府の本末改めをとらえ、関三刹かんさんさつへ訴えました。判決は正法寺しょうぼうじへの帰末となり、廣見寺が勝訴しました。月珊げっさんさまは判決を報告すべく、奥州正法寺しょうぼうじへ向かいました。

時の住職 徳州良忍大和尚は、帰末の印として2世 月泉げっせん禅師の伝衣を付与されました。この伝衣は、現在も寺宝として秘蔵されており、平成14年に市の文化財に指定されました。

14世 大梁禅棟だいりょうぜんとう大和尚の可睡斎かすいさい昇住

禅棟さま直筆廣見寺記

禅棟さま直筆廣見寺記

可睡斎かすいさい31世 大昶光国大和尚が、関三刹かんさんさつの一つ龍穏寺に昇住するのを受けて禅棟ぜんとうさまが、32世として入寺することになりました。

なぜ禅棟ぜんとうさまが大刹たいさつ可睡斎かすいさいに住職する事ができたかは不明ですが、可睡斎かすいさいで書かれた「廣見寺記」の中で本末争いの詳しい顛末が記述されているので、関三刹かんさんさつや幕府と深い関係があったからではないかと推測されます。

18世大量英器だいりょうえいき大和尚と石経蔵せっきょうぞう事業

石経蔵

石経蔵

石経

石経

英器えいきさまは、師匠の17世 霊蓋英峰うんがいえいほう大和尚の遷化により、宝暦7年(1756)末寺 妙音寺(札所1番 現四萬部寺)より進山しました。

明和5年(1768)宗龍そうりゅう禅師を請招し授戒会じゅかいえを開催しました。その時の参加者は僧俗あわせて228名でした。その折、宗龍そうりゅう禅師の石経功養の誓願に共鳴し、石経蔵せっきょうぞうを造成する決断をしました。翌6年、8人の石工を使って1年がかりで石蔵を開削しました。

明和7年5月より100日間の石経書写を行い、数千個の石経を石室に納めました。昭和2年に 石経蔵せっきょうぞうは県史跡に指定されています。(詳しくは秩父石経寺へ)

天明の大飢饉と浅見勘左衛門

勘左衛門の墓

勘左衛門の墓

浅見家の財産目録

浅見家の財産目録

天明3年(1783)7月、浅間山が大噴火を起こし、これを機に数年に亘って飢饉が続きました。社会不安は頂点に達し、各地で一揆打ちこわしが行なわれました。秩父地域でも12月16日夜打ちこわしが行なわれました。

その時の首謀者の1人として割役の浅見勘左衛門が捕らえられ、忍城にて尋問を受け有罪(冤罪といわれている)となり、天明7年7月22日死罪に処せられ浅見家は断絶しました。

松本御用日記の中に、処刑が行なわれる日であった7月21日に「廣見寺始同門外常楽寺等」が勘左衛門を救おうと刑場に押し寄せたと書かれています。これによって当日は処刑できず、翌日牢屋の中で処刑が行なわれました。その時の辞世の句「闇の世に切口しろし、秋の月」と詠みました。この句は廣見寺境内墓地の勘左衛門の墓の側面に切付けてあります。

大本山総持寺への輪住

洞川庵額

洞川庵額

本山持参の御袈裟

本山持参の御袈裟

大本山総持寺は2祖峨山がさん禅師の置文によって、峨山がさん禅師の法孫が、代わる代わる住職する(輪住りんじゅう)制度が、明治初年まで続いていました。

廣見寺が正法寺しょうぼうじ末に復帰すると、総持寺内 洞川庵とうせんあんに輪住する事になりました。まず、17世 雲蓋英峰うんがいえいほう大和尚が宝暦5年(1755)に1年間輪住りんじゅうしました。2回目は20世 天隆壽門てんりゅうそもん大和尚が安永9年(1780)に輪住りんじゅうしました。3回目は、25世 鐵山祖印てっさんそいん大和尚が、天保4年(1833)に輪住りんじゅうしました。

当寺には、祖印さまが輪住りんじゅうした記念に寄付された袈裟が現存しています。

28世守道大謙しゅどうだいけん大和尚と地蔵信仰

守道大謙さま肖像

守道大謙さま肖像

大謙さま直筆の地蔵尊

大謙さま直筆の地蔵尊


檀信徒へ授与した地蔵尊

檀信徒へ授与した地蔵尊

大謙だいけんさまは、慶応元年(1864)末寺瑞岩寺より昇住されました。幕末明治維新の動乱の中、約34年の長きに亘って住職しました。

大謙だいけんさまは、秩父を代表する宗教家であったらしく、大正14年発刊の「秩父郡誌」の宗教家の章に紹介されています。また、大本山永平寺貫主候補にも推される硯徳でありました。

大謙だいけん さまは、特に地蔵信仰を持っており、坐禅堂に日野沢大通院西国堂内の地蔵尊を譲与してもらい、祀りました。(西国堂は明治初年に洪水によって損壊し、地蔵尊も損傷していた)この地蔵尊は残念ながら大正2年の火災で坐禅堂と共に焼失してしまいました。

その後大正13年、30世 大宏だいこうさまが金銅の地蔵尊を坐禅堂跡地に奉祀しました。しかしこの地蔵尊は太平洋戦争の折、供出されてしましました。そして、戦後の昭和24年現在の石像地蔵尊が建てられました。また、大謙だいけんさまは自ら描いていた地蔵尊を檀信徒だんしんとに授与しました。

29世智覚大円ちがくだいえん大和尚と大正火災

上棟式直前の姿

上棟式直前の姿

本堂扁額(秩父市文化財)

本堂扁額(秩父市文化財)

東側下懸

東側下懸

西側下懸

西側下懸

大謙だいけんさまが明治31年に亡くなると、その弟子である大円だいえんさまが、末寺瑞岩寺(上黒谷)から入られました。大円だいえんさまは元文年間に作られた本堂等の改修に尽力されました。

しかし、その努力も虚しく、大正2年2月18日失火(浮浪者の焚火と伝えられている)により、総門と東側小屋を除くすべての伽藍がらんを焼失してしまいました。唯、幸いにも本尊三世佛や過去帳、月泉禅師伝衣げっせんぜんじでんえ、古文書等は救い出され、今日に伝わっています。

有り難い事に、本堂再建が始まり、大正5年3月5日起工式が行なわれ、大正7年めでたく完成しました。この頃、大円だいえんさまは晩年を迎えられ建設工事の事務は弟子の大宏だいこうさま(この時は札所1番四萬部寺の住職であった)が行なっていたと言われています。

この時の棟梁は、荒木社寺建築の坂本太郎氏でした。
この事業に髙橋組(秩父市内中村町)の前々棟梁髙橋忠四郎氏も参加していました。
本堂軒の下懸を作る際に2人の棟梁の意見が合わずに、別々の下懸ができたという逸話が残っています。

30世智浄大宏ちじょうだいこう大和尚さまと太平洋戦争

開山堂兼位牌堂上棟式

開山堂兼位牌堂上棟式

29世 大円だいえんさまが大正9年に亡くなると弟子である大宏だいこうさまが入山されました。大宏だいこうさまは、火災の後の伽藍の復興に尽力されました。大正7年本堂再建の後、昭和12年大書院昭和24年梵鐘再鋳、昭和33年開山堂兼位牌堂と再建し、廣見寺復興の為に一生を過ごされました。そんな中、昭和16年12月8日の太平洋戦争が勃発したのでした。

昭和19年には東京都中央区の月島第一国民学校の生徒100人が疎開して、本堂・書院で暮らしていました。また、戦争末期政府より金属供出の命令が下り、梵鐘、地蔵尊をはじめ多くの仏具が供出されました。

そして、昭和20年8月15日敗戦を迎えました。新時代の波は非常にも廣見寺に襲いかかりました。それは農地解放という改革でした。廣見寺は、7町8反を解放したという事です。廣見寺は一気に経済的基盤を失ってしましました。唯、廣見寺は多くの檀徒を有しており、檀徒の力によって戦後70年を生き抜き今日に至っています。

31世守徳大謙しゅとくだいけん大和尚と本寺正法寺への晋山

正法寺普山式

正法寺普山式


正法寺普山式

正法寺晋山式


正法寺普山式

正法寺普山式

31世 守徳大謙しゅとくだいけんさまは、28世 守道大謙しゅどうだいけんさまの徳をいただく為に、師匠大宏だいこうさまが2代目大謙だいけんを継がさせました。

大謙だいけんさまは、昭和17年永平寺安居あんご中に召集令状が来て、満州に出征しました。そして敗戦後、シベリアに2年4ヶ月抑留され昭和22年12月3日に帰還しました。その後、昭和25年下黒谷東昌院の住職となり、昭和41年当寺に晋山しんざんしました。

大謙だいけん さまは宗門内で活発に活動し、特派布教師、大本山総持寺布教部長、埼玉県第2宗務所所長、全国宗務所長会長、本寺 正法寺しょうぼうじ末寺護持会長等を歴任しました。平成9年12月正法寺しょうぼうじ大山興隆おおやまこうりゅう老師の突然の発病により、後住の問題が起き、末山会議の結果大謙だいけん さまが推挙され、同10年10月1日57世住職になりました。
時あたかも平成大改修の折、末寺一丸となって大事業を遂行している最中でした。以来8年8ヶ月住職し、改修落慶式1ヶ月前の平成19年5月14日に亡くなりました。

32世智徳廣文ちとくこうぶん大和尚と寺づくり

廣文和尚晋山式

廣文和尚晋山式

ウスサマ明王

ウスサマ明王

31世大謙だいけんさまが、正法寺しょうぼうじ に登ったので、廣文和尚の晋山式と三門落慶式が平成11年11月21日に行われました。以来、廣見寺を信仰の寺、歴史の寺、花の寺として多くの参拝者が訪れていただく為に寺づくりを行っています。平成16年から4年間かけて裏山に四国八十八ヶ所遍照苑を建設し、13仏12支巡り、七福神、そして本年(平成27年)坂東西国堂を建設し66観音を奉祀しました。

また、平成26年には本堂西側にトイレの神様ウスサマ明王をお祀りしました。ウスサマ明王をお参りすると、俗に「下の世話にならない」という信仰があり、お年寄りの方々に喜ばれております。本年より通称名「秩父虹寺」と命名し、参拝された方々に夢や元気を与えられる寺になるべく努力しているところです。

補遺

剣聖 髙野佐三郎先生墓所

髙野先生真影(廣見寺蔵)

髙野先生真影(廣見寺蔵)

髙野家墓所(旧市有墓地内)

髙野家墓所(旧市有墓地内)

髙野先生寄贈達磨図(諸星成章氏画 大正9年)

髙野先生寄贈達磨図
(諸星成章氏画 大正9年)

世に剣聖と讃えられた髙野佐三郎先生の墓所が廣見寺旧市有墓地にあります。
髙野家の屋敷は、市内宮側町、秩父神社西側にあり、明治以前は番場町にあった末寺 蔵福寺(現在の札所15番少林寺)の檀徒であったが、廃仏毀釈により、蔵福寺が廃寺となり、廣見寺の檀徒となりました。

その後、少林寺墓地にあったと思われる墓地を昭和15年に移設して現在に至っています。
伝記によると、佐三郎は祖父 佐吉郎 苗正みつまさの影響を強く受けたとされていますが、その佐吉郎は、当寺の28世守道大謙大和尚から禅学を学び、剣禅一如の精神を養われたという事です。

髙野佐三郎先生 略歴

剣道範士。近代剣道の創始者。埼玉県秩父市大宮町に芳三郎の長男として生まれ、祖父佐吉郎苗正みつまさより、小野派一刀流の伝授を受け、5歳にしてすでに苗正とともに忍藩主の前で同流の組太刀五十六本を演じ人々を感嘆させた。

17歳のとき、高崎藩の岡田定五郎の邪剣のため、のど笛を突破られて発奮、上京して山岡鉄舟の門に入り、指導をうけた。

のちに九段に明信館道場を設けて多数の門弟を育成し、また警視庁・東京高等師範 学校剣道師範などを歴任、1913(大正2年)には剣道範士の称号をうけた。(以下略)

【出典】日本歴史辞典 河出書房より引用

文殊・普賢菩薩由来記

文殊菩薩

文殊菩薩

普賢菩薩

普賢菩薩

宗堅尼墓塔

宗堅尼墓塔

随願即得陀羅経(廣見寺蔵)

随願即得陀羅経(廣見寺蔵)

三門の北側に祀られている文殊さまと普賢さまは、元本堂須弥壇上の本尊両側に安置されていました。
平成11年三門が完成した時に、多くの方々に親しくご尊顔を拝してお参りしていただこうと、本堂から遷座させたものです。

この両尊は、寛政2年に納められました。
文殊菩薩は上町中家(平成28年現在の当主 易司氏)一族の覚兵衛、久三郎、半兵衛の三名が、普賢菩薩は滝の上町髙野伊佐衛家(滝の上髙野家の総本家 現在は絶家)が寄付して祀られました、
中家髙野家両家共に篤信家であり、明和5年(1768)に行われた宗龍禅師の授戒会にも参加をしていました。また、伊左衛門の娘は宗龍禅師の弟子となり、授戒会に参加していました。

滝の上町視目神社裏の墓地(18基の墓塔がある)の中に大乗宗堅尼の墓塔もあります。(廣見寺過去帳には大乗宗堅尼首座越後宗龍和尚之弟子とある)

また、中家 半兵衛は、18世大量英器大和尚に協力して「観音菩薩随願即得陀羅尼経」を印施しました。

この経本は、宗龍禅師が十一面観音を信仰していた事から作られたものだと思われます。

文殊・普賢二尊は、13仏の仏さまでもあります。廣見寺は、13仏すべてが祀られており、この由来を感じながらお参りください。

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