廣見寺の開創と本寺正法寺
2世 東雄朔方大和尚と3世 端山守的大和尚の活躍
戦国時代信玄焼きと徳川家康公の関東入府
坂東観音堂の建立
清泉寺との本末争い
14世 大梁禅棟大和尚の可睡斎昇住
禅棟さま直筆廣見寺記 |
可睡斎31世 大昶光国大和尚が、関三刹の一つ龍穏寺に昇住するのを受けて禅棟さまが、32世として入寺することになりました。 なぜ禅棟さまが大刹可睡斎に住職する事ができたかは不明ですが、可睡斎で書かれた「廣見寺記」の中で本末争いの詳しい顛末が記述されているので、関三刹や幕府と深い関係があったからではないかと推測されます。 |
18世大量英器大和尚と石経蔵事業
石経蔵 石経 |
英器さまは、師匠の17世 霊蓋英峰大和尚の遷化により、宝暦7年(1756)末寺 妙音寺(札所1番 現四萬部寺)より進山しました。 明和5年(1768)宗龍禅師を請招し授戒会を開催しました。その時の参加者は僧俗あわせて228名でした。その折、宗龍禅師の石経功養の誓願に共鳴し、石経蔵を造成する決断をしました。翌6年、8人の石工を使って1年がかりで石蔵を開削しました。 明和7年5月より100日間の石経書写を行い、数千個の石経を石室に納めました。昭和2年に 石経蔵は県史跡に指定されています。(詳しくは秩父石経寺へ) |