廣見寺の歴史

月泉良印禅師伝衣(秩父市指定文化財)

月泉良印禅師伝衣(九条袈裟)

月泉良印禅師伝衣
(九条袈裟)


正法寺より授与された證状

正法寺より授与された證状

延享年間の幕府本末改めに伴い、廣見寺は清泉寺(旧吉田町)からの離脱を求め、幕府に訴え、正法寺帰末という結果で勝訴しました。

時の住職 月珊春明さまは、この結果を正法寺に報告し、住職33世 徳州良忍大和尚より帰末を許され、その証明として「伝衣」を授与されました。

(株)川島織物の調査によると、この袈裟は幅335cm×丈124cm、紺地こんじ牡丹ぼたん唐草からくさ文様もんよう
木瓜もっこう龍文りゅうもん金襴きんらん の九条袈裟で、明時代後期の中国製である事が判明しました。(平成19年2月27日指定)

惣門(総門 秩父市指定文化財)

現在の惣門

現在の惣門


昭和初期の惣門

昭和初期の惣門

廣見寺は戦国時代末期、武田軍の焼き討ちに遭い、全ての伽藍がらんを焼失しました。

江戸時代に入り、伽藍がらんは逐次再建されました。
この惣門もこの時に建築されたものです。
幸いにも、享保・大正に起こった2度の火災の難を逃れ、今日も現存しています。

坂本才一郎氏の調査により、17世紀初頭の建築、禅宗様四脚門にて秩父地方の名匠 藤田徳左衛門(廣見寺檀徒)によって建てられた県内有数の建築物であると鑑定されました。

尚、平成10年の三門再建事業の折、解体修理を行いました。

本堂額縁がくぶち(秩父市指定文化財)

本堂額縁

本堂額縁


下郷笠鉾(秩父観光協会発行「夜祭」より転写)

下郷笠鉾(秩父観光協会発行
「夜祭」より転載)

本堂正面の扁額へんがく覚皇殿かくおうでん 」は、市内柳田町 淺見惣吉氏(現当主 佳久氏)により、昭和15年に納められました。
この扁額へんがくの額縁は、元下郷笠鉾の万燈の一辺であります。
下郷笠鉾の万燈は、明治29年に製作されるも、大正2年電線架設に伴い、曳行ができなくなり、関係者に払い下げられたという事です。
地元の浅見氏がせり落して自宅に保管し、昭和15年当寺に寄贈したものであります。

そして40年後の昭和55年に長子 一三氏が、修復の為の浄財を寄付され今に至っています。

尚、「覚皇殿かくおうでん 」の書は、高篠光明寺23世 香川 瑞鳳師が、刻は24世 鳳文師父子に大宏和尚がお願いしたという事です。

25世鐵山祖印てっさんそいん大和尚袈裟

鐵山大和尚袈裟

鐵山大和尚袈裟


袈裟裏の信施略記

袈裟裏の信施略記

大本山総持寺は、2祖峨山禅師が遷化せんげすると禅師の直弟子5人が本山内に院を創り、この五院の住職が代わる代わる住職して本山を護持する集団指導体制に移りました。
これを輪住りんじゅう制といいます。しかし、時代を経るうちに、いくつかの院の直弟子が枯渇して、欠住がでる事態に陥る事となったのでした。

5院の1つ洞川庵は、東北の雄「正法寺教団」に助住を要請しました。
正法寺教団は、始めこの要請を拒んでいたのですが、寛永10年(1633)その要請を受け入れ、岩手県花巻市瑞光寺 住職 陽山天朔大和尚が初めて洞川庵に輪住りんじゅうしたのでした。

当廣見寺も延享3年に帰末したことにより、その任に当たる事になり、宝暦5年(1755)17世雲蓋英峰大和尚うんがいえいほう、安永9年(1780)20世天隆壽門てんりゅうそもん大和尚、天保4年(1833)25世鐵山祖印大和尚が輪住りんじゅうしました。

このお袈裟は、天保4年に鐵山大和尚が本山に輪住りんじゅうするという事で、江戸在住の井元氏(現在は不明)が寄贈したものであります。

15世月珊春明大和尚袈裟

春明大和尚袈裟

春明大和尚袈裟


春明大和尚の手書

春明大和尚の手書


春明大和尚袈裟

春明大和尚袈裟


18世英器大和尚署名の袋

18世英器大和尚署名の袋

14世大梁禅棟大和尚が、静岡の大刹可睡斎に昇住すると、その後住として、弟子の月珊春明大和尚が龍石寺(札所19番)より住職となりました。春明さまは、幕府の延享本末改めの際に官訴して、勝利したのでした。
その間、江戸と秩父の間を何回も往復しました。

そして、正法寺帰末の判決がおりるとすぐに岩手正法寺に報告に向かったものと思われます。その時の道中日記も現存しています。

この袈裟は、18世大量英器大和尚の書かれた和紙製袋の中に納められていました。
英器さまは
「伝法中興の春明さまが、住職の間所持していた法衣(袈裟)を永く当山に留めて、後々の法孫達に示し、法孫はその法衣を見て感嘆し、春明さまの業績とご苦労とその恵みに感謝しなければならない」
と書かれています。

21世豪産祖英大和尚 掛絡から

祖英大和尚掛絡

祖英大和尚掛絡


裏側の由緒書

裏側の由緒書

21世豪産祖英大和尚は、妙音寺(札所1番 現在は四萬部寺)5世より、永安10年(1781)廣見寺へ昇住しました。
祖英さまは、18世 大量英器大和尚の法嗣はっすにて、前住20世 天隆壽門の兄弟弟子になる方であります。

この掛絡からは、裏の由緒書を見れば、明和7年(1770)6月18日に自ら縫って作ったものという事です。

伝来の袈裟・絡子らくす

九条袈裟

九条袈裟
橙色の生地は打掛と思われる

裏側の由緒書

七条袈裟
左と同じように和服の生地を
再利用していると思われる

大絡子

大絡子

大絡子

大絡子

大絡子

大絡子

打掛前机飾り(参考)

打掛前机飾り(参考)

面山瑞方大和尚書「佛是西天老比丘」

面山瑞方大和尚書

面山瑞方大和尚書

面山瑞方大和尚は江戸時代中期の方で、曹洞宗学の基礎をつくられた優れた宗学者でありました。
卍山道白大和尚と並び称される復古改革運動(大寺への出世主義に陥った宗門を道元禅師の純粋禅に帰そうとする運動)のリーダー的存在でありました。

24歳の時、神奈川県羽鳥村老梅庵に於いて、一千日閉関(門を閉じて外出しない)の修行を行いました。
その後、請いに応じて講筵こうえんを行い、多くの著述を残しています。主な住職地は禅定寺(佐賀県江北町)、空印寺(福井県小浜市)です。

大般若六百巻(元今宮坊蔵)

大般若経600巻

大般若経600巻


塩谷啓山師寄進状

塩谷啓山師寄進状


廣見寺大般若法要

廣見寺大般若法要

当寺では毎年春の彼岸会中日に大般若祈祷法要を行っています。
大般若祈祷法要とは、大般若経600巻を転読して檀信徒の家内安全・子孫長久・身体健全などを祈る法要であります。
大般若経600巻内には、般若心経・金剛般若経・八千頌般若経はっせんじゅはんにゃきょう等、般若経典類が納められています。
般若経典は貴いお経であるので、読誦どくじゅすれば勿論ですが、ただ転読するだけでも広大な功徳があると信じられ、曹洞宗では祈祷法要に大般若経が用いられています。

この大般若経は、大正火災で焼失してしまった廣見寺に今宮神社宮司 塩谷啓山師が収めたものであります。
今宮神社は、明治以前は修験道の寺であり、札所14番の朱印所でありました。啓山師の父君廣純法印が幕末に中町町内の信徒や江戸の信徒達に寄付してもらい、購入したものであります。

塩谷家は元廣見寺の檀徒であり、今宮坊内に末寺 満光寺(江戸末期廃寺)もあり、廣見寺と深い関係にありました。啓山師は亡くなられた際、神葬祭の葬儀を行った後、遺志により仏式にて葬儀を行いました。

狩野探幽筆「龍」図

龍図

龍図

狩野探幽は江戸時代初期に活躍した狩野派の巨匠。
徳川幕府の御用絵師となり、二条城・名古屋城・大徳寺・妙心寺に障壁画・天井絵等が残っています。
当寺の「龍」図は何時の時代から伝わっているのかは不明ですが、大正火災の時に焼け出されて、裏の池に投げられて焼失を免れたという逸話が残っています。

東皐心越とうこうしんえつ禅師「大林山」扁額へんがく

総門扁額「大林山」

総門扁額「大林山」


円融寺の額

円融寺の額


頂像

心越禅師尊像(祇園寺蔵)


秩父市内廣見寺絵図

秩父市内廣見寺絵図

東皐心越禅師は、中国明時代末期、渡来した中国曹洞宗寿昌派の禅匠であります。
一時、長崎にて異派の僧の讒言にあい幽閉されるも、長崎 晧台寺(曹洞宗) 5世 逆流禎順や水戸光圀公の働き掛けによって許され、水戸に招聘されました。
水戸では水戸光圀公の帰依を受け、天徳寺(のちの祇園寺)を改修し、住持となりました。
元禄5年(1692)天徳寺に於いて晋山開堂が行なわれ、全国から1700人の雲衲うんのう が集まりました。光圀公も弟子となり、「観之居士」という名を授けられ終生あがめたそうです。

また、心越禅師は書画・琴・医術等、中国文化を伝え、多くの日本の文化人と交わりました。
特に篆刻をよくし、世に篆刻の祖といわれています。

この「大林山」という総門の 扁額へんがく は、本堂の「三世如来」と山門の「廣見寺」の三部作でありましたが、大正2年の火災にて本堂と山門の額は焼失し、焼け残った総門の額のみが現存しているという歴史をたどっています。

禅師の書は、山号額、寺号額として数多く残っています。
秩父地方では、他に影森の円融寺に山号額が納められています。

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