廣見寺の歴史

宗龍禅師の革新性 大而宗龍禅師顕彰会代表 町田廣文

宗龍禅師

宗龍禅師


廣見寺石経蔵

廣見寺石経蔵


廣岳院一切経供養塔

廣岳院一切経供養塔


宗龍禅師墨跡「雲」大隆寺蔵

宗龍禅師墨跡「雲」
大隆寺蔵

私と宗龍禅師の出会いは、平成11年刊行した「廣見寺ものがたり」からです。この書物の中に石経蔵の一章を設け、その経緯を書きました。
しかし、その時は普通に立派な人だったのだなというくらいの存在でありました。それから数年して偶然にも「正受戒弟簿」を見る機会を得たのでした。
この「正受戒弟簿」は、宗龍禅師が行なった授戒会(64回)に参加された人々の名前や戒名が書かれた帳面であります。

この中に何とのべ人数10500人の方の名前と戒名が書かれているという貴重な資料であります。
そして、この名前と戒名を石書してオンマカ山(下呂市)に納めるのだと書かれていました。これを見て、禅師の衆生済度の信念の深さに感動しました。以来、私の宗龍禅師の「追いかけ」が始まったのでした。

一言で宗龍禅師の魅力を言うならば、「江戸時代の封建主義 階級社会の中にあって、如何に衆生を救済するかという事を第一義に生きてきた方」という事が言えると思います。禅師の活躍した時代は、江戸中期「明和・安永・天明」の時代であり、天明3年の浅間山噴火にはじまる天明大飢饉に象徴される時代で、民衆が苦しんだ時代でありました。

全国で一揆が頻発し、無数の餓死者がでました。禅師はこのような人々をどのように救済したら良いか思い悩んだものと思われます。
明和7年に行われた廣見寺大般若石経書写会では、無宿癩病の人々に供養したと言われています。
また天明7年(1787年)東京港区廣岳院の一切経書写事業でも麦托鉢を行い、前年の洪水で被災していた人々に麦めし供養をしたという事です。
勿論、当時の社会情勢の中では焼け石に水のごときものであったかもしれませんが、一隅を照らす貴重な仏行であったものと評価されるべきだと思います。それは当時の曹洞宗の中でこのような所業を行った人はほとんどいなかったからであります。

当時の曹洞宗(仏教界)は寺請制度てらうけせいどの施行により、幕府政策の一端をになう役所的存在でもありました。
故に体制側の存在に位置し、民衆の救済という本来の機能を充分に果たす事はできませんでした。
そのような宗門状況の中で、禅師の一連の所業は現代に通ずる革新的なものであったと考えられます。

昭和52年に良寛さんが尊敬されていた方という事で、宗龍禅師の名前が一躍有名になりました。
しかし宗龍禅師は良寛研究の枝葉にある存在ではないと思っています。
宗龍禅師は正に大木で、この方をしっかり顕彰し、曹洞宗の歴史の中に宗龍の二字を入れたく精進していきたいと思っています。

生い立ちと修業時代

宗龍禅師頂像(高山市大隆寺像)

宗龍禅師頂像
(高山市大隆寺像)

宗龍禅師手縫糞掃衣(大隆寺蔵)

宗龍禅師手縫糞掃衣
(大隆寺蔵)

富岡市永隣寺

富岡市永隣寺

宗龍禅師は、享保2年(1717年)群馬県富岡市下丹生しもにゅうの農家に生まれました。縁あって地元の寺である永隣寺9世紹山賢隆和尚の弟子になり、修行が始まりました。
その後、師匠悦巌素忻えつがんそぎん禅師も修行された岐阜県関市妙応寺で修行され、悦巌えつがん禅師が寛保3年(1743年)新潟県巻町萬福寺に入山するや、それに随従して参学されました。

悦巌えつがん禅師は萬福寺住山12年にして、宝暦4年(1754年)石川県金沢市の大刹天徳院8世として昇住しました。宗龍禅師も師匠に伴い天徳院で修行をしたものと思われます。
宝暦6年、禅師は40歳にして、天徳院首座しゅその大役を勤めました。その首座職の時、山内の古雑巾を集めて糞掃衣ふんぞうえ を作りました。その目的は、首座職は、僧侶として出世の始めであるから、名聞の欲を除く為であると自ら述べています。 後に布に書き記し、袈裟に縫い付けて弟子達の戒めとしました。宗龍禅師が名聞を嫌い、大寺に住職することを忌避する考えはすでにこの頃からあったものと思われます。また、自分のことを無徳無福と謙り、一介の 乞食僧こじきそうとして一生を過ごされました。
良寛さまが慕われたのも、宗龍禅師のこのような生き方があったからと思われます。

翌宝暦7年、悦巌えつがん禅師の法を嗣ぐことを許され、続いて永平寺に登り瑞世ずいせの式を済ませ、当時の曹洞宗の主流とも言うべき月舟・徳翁門下の宗匠となったのでした。

師匠悦厳禅師の示寂と観音院入院

観音院

観音院


観音院歴住墓地

観音院歴住墓地


新潟県新発田市にある龍華山観音院は、江戸時代中期享保年間の紫雲寺潟しうんじがた干拓事業によって造られた村落に出来た新しい寺院であります。

村民の強い希望により当地の出身である悦巌禅師を拜請はいしょうして観音院は起立しました。しかし悦巌禅師は、師黙子もくし禅師に開山の栄誉を譲り、自らは2世となり観音院住持となられました。

宝暦10年(1760年)天徳院を退院した悦巌禅師は、観音院に帰居し、翌々年3月13日、67歳にて示寂じじゃくされました。宗龍禅師は、後席を嗣がれ、第3世住持となりました。

悦巌禅師には、十数名の嗣法しほうの弟子がおりましたが、中でも「真龍、蒼龍、全龍、大龍」が有名で、これを世人は「悦巌の四龍」と言ったそうです。

真龍和尚は、宗龍禅師より3才年下にて、嗣法しほうも2年遅い事から、宗龍禅師が悦巌禅師の弟子のリーダー格であったものと思われます。
宗龍禅師は、この年10月に香伝寺(新発田市)に於いて最初の安居助化師を勤めますが、これを皮切りに、33回の安居、64回の授戒会を行いました。宗龍禅師の徳を慕い、兄弟弟子を中心に禅師の回りに人が雲集し、安居、授戒会が重ねられたのだと思います。

観音院は、3回の安居、授戒会を行っており、また示寂の地でもあり、禅師にとって最高の拠点寺院でありました。

悦巌四龍について

真龍

真龍は天山真龍といって、少林寺(静岡県)鑑洞寺(新潟県)地蔵寺(新潟県)壽昌寺(神奈川県)を歴住している。

蒼龍

蒼龍は、大而宗龍禅師

全龍

全龍は活宗全龍といって、龍田寺(群馬県)壽昌寺(神奈川県)を歴住、宗龍禅師の授戒会安居に2回参加している。

大龍

大龍は不明。
唯し平成26年9月、高山大隆寺で行われた第6回宗龍禅師シンポジウムに於いて宗龍禅師親造の悦巌禅師灰像が発見され、その蓋裏に四龍が書かれており、大龍ではなく逸龍が書かれていた。
逸龍は、宏淵逸龍といい、萬福寺(新潟県)12世となっており、大龍ではなく逸龍の可能性がでてきた。

悦巌禅師灰像と蓋裏記述

悦巌禅師灰像と蓋裏記述

33回の安居と64回の授戒会開催

>夏冬安居帳(大隆寺蔵)

夏冬安居牒(大隆寺蔵)
第1回香伝寺から第33回
観音院までの参加者
1751名が記されている

正受戒弟簿(大隆寺蔵)

正受戒弟簿(大隆寺蔵)
第1回長松寺から第64回
観音院までの参加者
10500名の名前戒名が掲載
されている

長松寺石経供養塔

長松寺石経供養塔

観音院3世を嗣がれた宝暦12年(1762年)冬、新潟県新発田市香伝寺に於いて、宗龍禅師は初めて安居助化師を勤められました。
助化師とは、安居百日間住職を補佐し、安居修行者の指導を任務とする大役で、主に有縁高徳の禅匠が請われてその役職につきました。

『夏冬安居牒』によると、この時の住持は絛庵歓理大和尚で、安居参加者は16名でした。
参加者は随従者、弟子達が参加しました。弟弟子である道主大賢(17)開田大義(27)竺翁慧林(19)智海萬宏(18)文明(9)良愚(7)泰巌活道(4)そして、のちの高山大隆寺取得に功績のあった大了(4)と宗龍禅師を心から敬慕する若き僧侶達が集い、偉業の第一歩が記されたのでした(カッコ内の数字は安居参加回数)。

翌宝暦13年(1763年)夏、群馬県高崎市長松寺に於いて第2回安居と第1回授戒会が開催されました。住持は頴明抜錘えいめいばっすい大和尚、安居参加者は68人、授戒会参加者は197名でした。

長松寺は、安永10年(1781年)3月にも授戒会を行ています。(通算48回目)この時は何と405名の参加者がありました(64回中2番目に多い数)。
その時、石経供養も行われ、石経供養塔が建立されました。

近年、改修が行われ、供養塔下より石経が出てきたそうです(平成18年春、宗龍研究者・川﨑洋幸氏が供養塔を発見しました)。

宗龍禅師授戒会開催寺院一覧表

戒弟のべ人数:1,751名

宗龍禅師授戒会開催寺院一覧表

宗龍禅師安居助化寺院一覧表

安居層のべ人数:10,526名

宗龍禅師安居助化寺院一覧表

唵摩訶山功徳院おんまかさんくどくいんの開創

念仏岩と功徳院

念仏岩と功徳院

弥勒菩薩と石経

弥勒菩薩と石経

御開帳当日の様子

御開帳当日の様子

唵摩訶講の皆さん

唵摩訶講の皆さん

禅昌寺全景

禅昌寺全景

廣見寺参拜団

廣見寺参拜団

明和9年(1772年)5月、宗龍禅師は、『随願即得珠ずいがんそくとくじゅ』を著し、新たなる衆生済度の大事業を発願しました。
それは、岐阜県下呂市少ヶ野しょうがのに大岩石があり、そこに授戒会参加者等の名前と戒名を石書して納めようというものでした。

その年7月、下呂市禅昌寺に於いて授戒会(21)を開催しました。禅昌寺は、臨済宗妙心寺派の古刹で、授戒会開催寺院唯一の他派寺院であります(宗龍禅師とどのような縁で授戒会が開かれたか今後の研究が待たれるところです)。

この授戒会の縁であったかは不明ですが、宗龍禅師は、地元の大地主であった中川武右衛門の帰依を受け、少ヶ野しょうがのの大岩石とその周辺の土地を喜捨されたのでした。
少ヶ野の名の由来は、昔恵心僧都源信えしんそうずげんしんがこの大岩の上で念仏をしていたことから念仏岩といわれ、この地に聖観音しょうかんのんをお祀りしたことから、ショウガノと言う地名になったと言われています。

禅師は、この念仏岩を穿ち、石室を作り、そこに授戒会に参加した人々の戒名とこの事業に協力した人々の戒名と石書して奉納しようとしたのでした。工事は3人の石工によって進められ、1年3カ月を費やして、深さ6尺の石室ができあがりました。
この中に、弥勒菩薩と百余巻の経文、そして願主の戒名を石書して納めました。

また、岩上には、山号の由来(十一面観音真言:オンマカキャロニカソワカ)となった十一面観音をお祀りしました。

平成24年4月15日、地元の唵摩訶講の人達が中心になり、百年ぶりに石室が開けられ、御開帳法要が行われました。

「随願即得珠」に書かれていた通り、石室の中に弥勒菩薩が安置されていました。

平成26年9月の宗龍禅師シンポジウムの帰路、唵摩訶山を参拜し、世話役 今井 實氏に温かい接待を受けました。

高山大隆寺の開創

大隆寺本堂

大隆寺本堂

位牌堂内宗龍禅師像

位牌堂内宗龍禅師像

岐阜県高山市大隆寺は、もと高山城主4代 金森頼直よりなお公が承応2年(1653年)、臨済宗大本山大徳寺の塔頭たっちゅう金龍院住職禅海宗俊和尚を開山に迎え開創された寺であります。

元禄5年(1693年)6代頼旹よりとき公の時、金森家は出羽国上山に転封され、大隆寺は大檀那を失ってしまい、安永年間(1770年頃)には、無住の状態になっていたようです。

安永5年(1776年)宗龍禅師は、本寺金龍院より百両(50両即金、50両5ヶ年割符)にて大隆寺を譲り受けました。
その目的は、大隆寺に般若台を建設し大般若経真読道場にしたかったからでした。真読しんどくとは、大般若経600巻を1字1字読むことで、一般に行われている転読てんどくよりも広大な利益があると宗龍禅師は信じており、安居授戒会開催寺院でしばしば行っていました。

この大隆寺譲渡には、弟子の大了上座だいりょうじょうざが活躍しました。
大了上座は、飛騨古川の出身にて、俗名を北村清五郎といいました。
宗龍禅師とどのような縁で弟子になったかは判明しませんが、宝暦13年(1762年)香伝寺に於ける第1回安居から既に参加しており、宗龍禅師に最後まで随従していたようです。この大了上座が上州の信徒新井五郎兵衛と共に100両を用立てました。

宗龍禅師は、師匠にならい悦巌禅師を開山とし自らは2世となり師恩に むくいました。

東京廣岳院一切経奉納と麦托鉢供養

廣岳院本堂

廣岳院本堂

廣岳院一切経供養塔

廣岳院一切経供養塔

天明7年(1787年)2月19日付諸檀那衆中連達状(大隆寺蔵)の中に、一切経6000巻石経書写の大願と「麦托鉢供養」の事が書かれています。

宗龍禅師は、新潟県長岡市甑洞庵ぞうとうあんでの授戒会(61)を終えると、この大願をはたそうと江戸に向かいました。
しかし、7月中旬大洪水に遭い、中断せざるをえない状況になってしまいました。当時は、天明3年の浅間山大噴火や大飢饉が数年続いて社会不安が募っている時代であり、江戸に於いても疫病の流行、物価の高騰と、庶民の生活は圧迫させられ、打毀うちこわし等が頻発していました。

そんな状況であったので、禅師の縁ある所に、米ではなく「麦托鉢」の依頼をしたのでした。そして、集められた麦は、ひきわりにし、江戸の庶民に供養されたという事です。

天明7年4月、廣岳院に於いて授戒会(62)が行なわれ、5月15日には、一切経石経供養が行なわれました。

平成18年1月、宗龍禅師研究者である小林將氏は、廣岳院にて、供養塔を発見し、事業が行われたことが証明されました。
この供養塔の側面には、江戸町人(商人)の名前が多数記されており、多くの町人、商人達が協力していたことが判明しました。
また、供養塔が現在地に移された時に、多数の写経石が出土したのですが、そのまま埋め戻されたということです。

良寛さまと宗龍禅師

円通寺

円通寺


夏冬安居帳 備中円通寺徒了寛香司と書かれている

夏冬安居帳
備中円ゆう寺徒了寛香司
と書かれている


昭和52年、山本哲成師、宮栄二氏の研究によって、良寛さまの弟子貞心尼の書いた「書簡」に出てくる宗龍禅師が、観音院3世大而宗龍禅師である事が確定しました。
宗龍禅師の残された「夏冬安居帳」にその名が書かれていたからです。良寛さまは、天明5年(1785年)観音院で開かれた夏安居に香司(時間を知らせる職務)として参加していたのでした。この安居は、宗龍禅師にとって33回目最後の安居であり、良寛さまは運よくこの安居に参加し、宗龍より親しくその宗風を参学することができたのでした。そして、良寛さまのその後の生き方に大きな影響を与えました。その書簡に「良寛さまは、既に隠居の身であった宗龍禅師になかなか会うことができなかったので、隠寮の庭に忍び込んで、手水鉢の上に置文をしました。朝、用足しに起きた禅師は、その文を見て、良寛さまを部屋に呼び、いつでも問法に来ても良いとお許しになりました。」

と書かれています。
宗龍禅師は、自らを「常乞食僧じょうこつじきそう」を称して乞食こつじきの生涯を送られました。また、大寺に出世する事も嫌いました。
良寛さまは、この清貧せいひんにして飄々とした禅風に親しみを覚え、心の師として敬慕し、自らも乞食の生活を実践したものと思われます。

宗龍禅師の晩年

宗龍禅師墓塔(大隆寺)

宗龍禅師墓塔(大隆寺)


遺偈(大隆寺蔵)

遺偈(大隆寺蔵)

宗龍禅師は、晩年になっても衆生済度の志が萎える事はありませんでした。天明5年6月(69才)、新発田城下に於いて無縁供養托鉢を行いました。

真夏の中での托鉢であったので、禅師は口のきけなくなる中気病(脳梗塞と思われる)を発病してしまいました。
死を覚悟した禅師の夢枕に日頃から信仰していた妙見菩薩が立ち、「薬が違う改めよ」と繰り返し告げたといいます。禅師は妙見菩薩の言うとおり薬を変えると不思議と快方に向かったという事です。この病の中、観音院安居・授戒会 瑠璃光院授戒会(新潟県阿賀野市)、会林寺授戒会(山形県新庄市)を行い、将に不惜身命の志をもって衆生済度の浄業を続けたのでした。そして、天明7年、江戸に上って廣岳院にて一切経供養・授戒会、天桂寺授戒会、天明8年観音院に帰り、64回目最後の授戒会を行いました。そして、翌年寛政元年(1789年)8月13日観音院において73才のご生涯を閉じられました。

遺偈ゆいげは、
看々 毘盧    (毘盧びるの)
光明照三世    (光明三世を照らす)
十方高壹母    (十方に高台こうだいに)
古鏡 糞裡    (古鏡こきょうく 糞裡ふんりに)
有真珠      (真珠有り)
咦 如虚空無染  (、虚空無染の如きは)
為 何誰     (だれす)
七十三石経僧手 七十三石経僧手づから

意訳すると、
仏の慈悲の光明は、平等に私達を照らしている。
大きな寺(高台)には、仏法はなく、民衆の中(糞裡)にこそ仏法(真珠)はある。
、清らかで何ものにも冒されない者は誰か
よく考えよ

となります。
宗龍禅師の本葬は法嗣竺翁慧林が書いた「示寂疏」が、大隆寺に残されている事から、二ヶ月後の10月13日に大隆寺にて行われたものと思われます。

宗龍禅師略年表

年号年齢西暦事項
享保 2年11717群馬県富岡市下丹生村にて誕生
不明群馬県富岡市永隣寺9世紹山賢隆大和尚より得度する
宝暦 6年401756天徳院(金沢市)住職、悦巌素忻大和尚の下で首座をする
宝暦 7年41 1757悦巌素忻の法を嗣ぐ
宝暦11年45 1761永平寺へ瑞世
宝暦12年46 17623月13日、師悦巌示寂、観音院3世となる
香伝寺(新発田市)に於いて第1回安居
宝暦13年47 1763長松寺(高﨑市)に於いて第2回安居、第1回授戒会
明和 3年50 1766宗賢寺(新潟市)10世となり夏安居(第8回)を修行
明和 5年 52 17685月6日宝光寺(新発田市)18世一天良瑞和尚、三門前に「大乗妙典一千部塔」を立て、その銘を宗龍が著す
廣見寺(秩父市)に於いて冬安居(第13回)、授戒会(第13回)
明和 7年 54 1770廣見寺(秩父市)に於いて石経蔵を造成
明和 8年 55 1771林昌寺(飛騨市)に於いて夏安居(第18回)、この時華厳経を石書し、供養塔を建てる
明和 9年 56 1772唵摩訶山(下呂市)を開創し、石経奉納。「随願即得珠」を著す
安永 2年 57 1773岐阜、愛知方面5寺にて、安居、授戒会を修行(~3年)
安永 5年 60 1776大隆寺(高山市)を開創
安永 7年 62 1778 新発田市下草荷に宮川義元と石井氏が「金光明最勝王経」塔を建立し宗龍が銘を著す
安永10年651781 長松寺(高﨑市)に於いて、授戒会(第49回)を修行し、石経書写事業を行い、境内に十一面観音を建立し、その下に石経を埋納する
天明元年651781聖澤寺(群馬県神流町)に於いて冬安居(第30回)を行う。門前に「大般若経書写真読供養塔」を建立
6月、宗龍「修道陰徳銘」(飛騨市指定文化財)を建て、打保村名主久右衛門の徳行を讃える
天明 3年671783日本寺(千葉県鋸南町)に於いて蔵経石経会安居(第32回)を修行。初めて尼僧10名を参加させる。千五百羅漢内尊者窟に石経を納める。「石経蔵」記念碑を立塔
天明 4年671784大円寺(東京駒込)に於いて授戒会(第58回)を修行する。境内に宗龍建立の青面金剛像あり
天明 5年681785観音院に於いて、最後の安居(第33回)を修行。この安居に良寛さまが参加する。尼僧9名参加
6月13日、新発田に於いて無縁供養托鉢中に倒れる
病の中、観音院、瑠璃光院(阿賀野市 第59回)、会林寺(山形県新庄市 第60回)3ヶ寺にて授戒会を行う。温海温泉にて湯治して回復する
天明 7年711787廣岳院(東京港区)に於いて授戒会(第62回)を修行。
この時、一切経石書供養を行い、境内に供養塔を建立。あわせて麦托鉢を行い、先年洪水で被災した人々に麦めし供養を行う
天明 8年721788観音院に於いて、最後の授戒会(第64回)を修行
寛政元年7317898月13日、観音院にて示寂
10月13日大隆寺に於いて本葬

大而宗龍禅師顕彰会

発会記念写真(平成17年)

発会記念写真(平成17年)


勉強会風景

勉強会風景


代表挨拶

第6回宗龍禅師シンポジウム
代表挨拶


椎名先生講演

第6回宗龍禅師シンポジウム
椎名先生講演


冨澤先生講演

第6回宗龍禅師シンポジウム
冨澤先生講演

発会主旨

昭和52年、良寛研究の第一人者である山本哲成師と宮栄二氏が「新潟県新発田市の観音院3世大而宗龍禅師が、良寛さまの生き方に大きな影響を与えた宗龍禅師である」ということを発見しました。
以来、宗龍禅師は、良寛さまの本師である國仙和尚と同じく、良寛研究には欠くべからざる存在になりました。

しかし、宗龍禅師は、あくまでも良寛研究の脇役であり、禅師の思想や行跡についての研究は進みませんでした。
平成16年頃だったか、偶然にも「正受戒弟簿」を閲覧する機会を得ました。
その時に「このお方は只者ではない」と直感しました。以来宗龍禅師は良寛研究の枝葉ではなく、太い太い幹の大木であると確信し、枝葉を茂らしていこうと思ったのでした。

しかし、浅学な我身でありますので、仲間が必要だと思い、同志を募り、共同で研究する事が研究を進め、深めていく最良の方法だと考え、顕彰会を発足させました。

平成17年11月5日、曹洞宗檀信徒会館の会議室で、10名の同志によって顕彰会が産声をあげました。
そして早や10年が経ちました。

活動は年2回の勉強会、会報「サッタハリン」の発行(4号発行済み)宗龍禅師シンポジウムの開催(平成22年より毎年開催)等を行っております。
発会以来、会員の研究によって多くの発見があり、宗龍研究は飛躍的に進みました。

会員募集
僧侶・在家の別なくどなたでも入会できます。
年会費 10,000円

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