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宗龍禅師  享保元年(1716)〜寛政元年(1789) 

ここでは、まだあまり知られていない宗龍禅師についてお話します。
 宗龍禅師は、群馬県富岡市の出生にて、金沢市天徳院住職悦巌素忻(えつがんそぎん)和尚の法を嗣ぎ、師匠の隠居地である観音院を嗣いで三世となられました。
 宗龍禅師の法系をたどっていくと、当時活躍された曹洞系の禅匠が数多くいることに気づきます。
その法系は月舟宗胡(げっしゅうそうこ)―徳翁良高(とくおうりょうこう)―黙子素淵(もくしそえん)―悦巌素忻―大而宗龍(宗龍禅師)と続きます。同じ法系には、永平寺五十世玄透即中禅師や良寛和尚の師匠である大忍國仙和尚もおり、当時の宗門改革運動の中心的集団の中にいたと言うことができます。

 このような環境の中で宗龍禅師は、大般若経の信仰と授戒会開催をもって民衆教化にあたりました。宗龍禅師は、47才より72才までの26年間に64回の授戒会を開きました。会場となった寺院を国別にみると、越後20、武蔵15(廣見寺含む)、上野7、飛騨6、美濃・三河各3、安房2、下総・相模・上総・下野・信濃・越中・羽前・近江各1となっており、関東信越地方を中心に布教されていたことが窺えます。
  明和3年冬、宗龍禅師は、群馬県藤岡市竜田寺の授戒会に於いて、30有余年心に秘めていた「大般若経石経書写」の大願を決意し、発表しました。翌年春2月、秩父34ヶ所観音霊場を巡拜し、この大願成就を願ったところ、巡拜途中、荒川の川原に無数の白い平石があるのを発見し、この石に墨書するのが最適であると考え、近くに岩を穿って、奉納しようと心に定めました。禅師は適当な場所を捜しているうちに、偶然にも廣見寺を発見したと言われています。時の住職大量英器さまにお会いし、禅師は自分の志をうちあけられました。英器さまは、そのお話にいたく感動し、境内に石経を納める石室を提供する約束をされました。
大般若経墨書の石
     
  翌明和5年10月、英器さまは禅師を招聘して4回目の結制を行いました。この時、禅師は大般若石経書写願文並序と同定規を撰し、準備を整えました。そして、半年後の6年6月より石工8人を雇い、石室を掘り始めました。岩はことの他硬く、工事は難儀を極めたそうで、工人たちは何度も工事の中止を訴えたということです。その度に、禅師と英器さまは、工人の思うままに工料を与え、待遇を改善し、また、この事業の貴さを説き、工人を励まして工事を続けさせました。やっとのこと、1年かかって石室は完成しました。そして、明和7年5月7日より7月16日までの100日間に及ぶ大般若経書写が始められました。
     
版木と願文
 この100日の間に書写の勝縁にあずかった人は、僧俗男女を問わず、800人にも及びました。また、無宿人・癩病の人達のために小屋を作って投薬し、供養し、3日に1度の洗浴を行いました。禅師も自ら小屋に赴いて説教をし、昼夜随願即得咒(ずいがんそくとくしゅ)を唱えさせました。また、この為に、禅師は3ヶ年にわたり寒暑を問わず托鉢をされたということです。
  そして、7月23日から三昼夜の施食会が行われ、大般若石経書写の大事業は、円満成就しました。
  その後、禅師は高山市に大隆寺を開創し、そこでも同様の大事業を行っています。
     
   特筆すべき事がもう1つあります。それは、宗龍禅師が、良寛さまの心の師であるということです。良寛さまは、天明5年春の観音院における結制に参加し、そこで禅師から、自分の生きる道を示唆されたものと思われます。良寛さまの飄々とした生き方の根底には、禅師の生き様が大きな影響をあたえているものと思われます。

 

●宗龍の人物像
  乞食行の実践によって良寛に強い影響を与えた大而宗龍は、円通寺開山の徳翁良高の流れで、黙子素淵、悦巌素忻、そして宗龍に至ります。一方、良寛の師、国仙は高外全国が師です。その全国と素淵の師は徳翁良高ですから、2人は兄弟弟子になるわけです。
  宗龍は上野国甘楽郡下丹生村(富岡市)の出身で、宝暦12年以降に越後紫雲寺村観音院の三世住職になります。観音院は備中浅口郡新見村西来寺の末寺として、黙子素淵の開山になるもので、2世は悦巌です。宗龍は明和8年には横越村の宗賢寺の住職になり、たった1年で退いています。その後、飛騨に大隆寺を建立して開山を師の悦巌にし、自分は第二世とし、すぐにでも弟子の恵林に三世を譲ろうとしたようです。しかし、恵林もすぐには応ぜず、3年後の安永8年に第三世となります。従ってこの間の4、5年は宗龍も落ち着けなかったと思います。その間にも、「越後常乞食僧龍」と名乗ったり、「諸国乞食僧宗龍」と名乗り、放身捨命の念を常に持ち続けていました。当時の僧としては名利に拘らない清潔な人物でした。この時の邂逅で、若い良寛は宗龍の生き方に強い影響を受け、後半生の生き方を決定付けています。後に良寛は「請受食文」を書き、日常生活では宗龍よりも一層、徹底した托鉢行で生涯を送ります。

●宗龍禅師法系図

宗龍禅師法系図

●大而宗龍禅師と良寛さまの比較年賦

西暦
年号
大而宗龍略年譜
良寛略年譜
1716 享保元年

・上野国甘楽郡下丹生村(元富岡市)に生まれる
・下丹生村永隣寺の賢隆師の弟子となる

 
1756 宝暦6年 ・加州天徳院において悦巌素忻の戒会の首座役を勤める  
1757 宝暦7年 ・嗣法 41歳  
1578 宝暦8年   ・出雲崎名主橘屋に生まれる
1762 宝暦12年 ・紫雲寺村観音院三世住職 46歳
(開山は黙子素淵、二世は悦巌素忻)
 
1768 明和5年 ・武州秩父廣見寺で大般石経書写  
1770 明和7年 ・成就「願主越後紫雲観音庵主宗龍」  
1771 明和8年 ・横越村宗賢寺十世住職 1年で退く  
1772 安永元年

・飛騨高山石経奉納を志す
 「願主越後常乞食僧龍」

 
1775 安永4年   ・18歳、家を出て尼瀬光照寺に入る
 「一朝怒りてその身を忘れ、以て親に及ぼしたるは或いに非りしか」(遺墨)
1776 安永5年 ・飛騨高山大隆寺建立
 二世住職 3年で退く
 
1778 安永7年 ・4月 紫雲寺村観音院での第1回目の受戒会 63歳  
1779 安永8年
・安永9年から天明5年までの6年間に越後、関東で14回の戒会を行う
・国仙に従い岡山玉島円通寺へ 22歳
1783 天明3年   ・4月 母おのぶ死す
1784 天明4年   ・6月 良寛らしき僧猿ヶ京の関を通過出雲崎へ
・7月 国仙信濃に旅する随行の僧あり
(菅江真澄「来目路の橋」)
1785 天明5年 ・4月 観音院で夏安居
・5月 観音院で受戒会(第2回目)70歳
・6月 現在の新発田市で托鉢中、中風を病む
・7月 安田町瑠璃光院戒会
・8月 羽州会林寺戒会
・10月 快癒

・4月 母おのぶ3回忌
4月15日からの観音院夏安居で香司の役を勤めている (宗龍との相見)

1786 天明6年 ・8月に一切経の供養を期して関東へ
洪水のため果たせず江戸で越年する
 
1787 天明7年 ・4月 江戸高輪広岳寺で戒会
・8月 沼田天桂寺で戒会
 
1788 天明8年 ・4月 観音院第3回目の戒会 72歳
・宗龍最後の戒会となる
・母おのぶ7回忌 良寛諸国行脚中
1789 寛政元年 ・8月 示寂 73歳  
1790 寛政2年   ・冬、国仙より印可の偈を与えられる 33歳
    ・宗龍は26年間に64回の戒会を実施した  
 
参考:「良寛への道 <良寛を学ぶ人のために>」 大島 晃 著
 

●宗龍会(仮称)入会のご案内
  現在、宗龍禅師の行跡を顕彰していく為に、有志によって宗龍会(仮称)結成に向けて準備が進められています。
  今まで宗龍禅師の研究は、「良寛さまの相見の師」として主に良寛側から研究されてきました。しかし、宗龍禅師の思想、誓願・行跡は特出すべきものがあり、独立して研究すべき古仏であると考えています。そこで、宗龍禅師を研究し、その思想行跡を顕彰していく会を発足させるべく現在準備中です。11月には東京にて勉強会を開催する予定です。興味のある方は、当寺までご連絡ください。


 
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