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当館のコレクションは棟方志功の生涯の芸業全般に及び、初期の「星座の花嫁」に始まり、「大和し美し」「二菩薩釈迦十大弟子」「女人観世音菩薩」「流離頌」「華狩頌」及び倭画、油絵、書等があります。
「わだばゴッホになる!」の青年は21歳で上京し、油絵から入って版画に至る人生を送り、「板の生命を彫り起こす」という想いから、自らの版画を板画と称し、独自の世界を築き上げ、その自由奔放に彫られた棟方志功の作品は、あらゆる人々の心に自然と人間の生命の逞しさ、美しさを強烈に印象づけ、多くの人々に親しまれ愛され続けています。 |
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棟方志功略年表 |
明治36年 |
0歳 |
9月5日、青森市大町1丁目1番地に生まれる。 |
大正9年 |
17歳 |
青森地方裁判所弁護士控所の給仕となる。 |
大正13年 |
21歳 |
9月、絵の修行のために上京 |
昭和3年 |
25歳 |
10月、油絵「雑園」で帝展に初入選。 |
昭和5年 |
27歳 |
赤城チヤと結婚 |
昭和11年 |
33歳 |
国画会展出品の「大和し美し」により柳宗悦、河井寛次郎、浜田庄司らに見出され、指導を受ける。 |
昭和14年 |
36歳 |
「釈迦十大弟子」を制作。 |
昭和20年 |
42歳 |
4月、富山県福光町に疎開。 |
昭和26年 |
48歳 |
富山県福光町から、東京都杉並区荻窪に居を移す。 |
昭和31年 |
53歳 |
イタリアのベニス・ビエンナーレ国際美術展に「柳緑花紅頌」他11点を出品し国際版画大賞を受ける。 |
昭和40年 |
62歳 |
紺授褒賞を受ける。 |
昭和45年 |
67歳 |
11月、文化勲章を受章、文化功労者に指定される。 |
昭和50年 |
72歳 |
9月13日、肝臓癌のため死去。 |
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棟方志功は「板画」という字を使います。初期には「版画」という字を使っていましたが、「板画」というものは板が持って生まれた性質を大事に扱い、木の魂というものを直に生み出さなければダメだと考え、板の声を聞くということで、「板」という字を使うことにしました。
また、江戸後期の板画家はこの「板」の字を使い、板元の場合もこの「板」であり、棟方志功も木板画が専門のため、「板画」という表現を用いています。
一般的な「版画」は木を半分に使った字であり、半分にするより全部の意味を持たせて「板画」の字を使いました。 |
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日本古来の彩色板画は浮世絵のように多色刷ですが、棟方志功は白黒板画を鮮やかにするために彩色を施しました。初め「ヴェニース生誕」や「大和し美し」のように表に色付けをしました。これを見た柳宗悦が、中国の古法で和紙の裏から色付けする裏彩色を教示しました。この方法だと板画の線がマスクされずに自由に彩色されます。昭和十二年以後の作品は裏彩色によるものがたくさんあります。 |
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棟方板画の題名は「大首の柵」「門世の柵」のように、初期何年かの作品以外は殆ど「○○の柵」と名付けられています。
棟方志功の説明によると、「柵」とは四国の巡礼が寺々に納める回礼のことで、願いをかけてお札を納めて歩く心を表すものです。
一柵ずつ作品に願いをかけて、生涯の道標を置いて行く、無限に続く想いをこの文字にこめています。
「柵」の文字を使い始めたのは昭和16年38歳の頃、柳宗悦氏等に接して他力本願的な芸術観に目覚めた時期がであり、この芸術観に何らかの関連があるように思われます。連作全体の総称にも、個々の作品にも使っていますが、板画の題名に限っており、倭画、油絵など肉筆画には使っていません。 |
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