廣見寺より大本山総持寺洞川(とうせん)庵に、17世雲蓋英峰(うんがいえいほう)さま(宝暦5年)二十世天隆壽門(てんりゅうそもん)さま(安永9年)二十五世鐵山祖印(てつさんそいん)さま(天保4年)の三師が輪住しています。
この話をするには、まず洞川庵の事について説明しなければなりません。
大本山総持寺は、太祖瑩山禅師によって、能登門前町(現在は神奈川県横浜市鶴見区)に開かれました。その後を嗣がれたのが二祖峨山禅師さまでした。峨山さまは、50歳にて総持寺を譲られますが、約40年の長きに亘り、住持職を務め、大本山の基盤を作りました。特に、弟子の育成に努め、禅堂には修行僧が雲集し、多くの優れた人材を輩出しました。世に言う五哲、二十五哲の諸禅師は、その中でも傑出した弟子だったということです。 |
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大本山総持寺祖院 |
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二祖峨山禅師が亡くなると、総持寺はその弟子達の合議制によって運営されるようになり、五哲(太源宗真(たいげんそうしん)禅師、通幻寂霊(つうげんじゃくれい)禅師、無端祖環(むたいそかん)禅師、大徹宗令(だいてつそうりょう)禅師、実峰良秀(じっぽうりゅうしゅう)禅師がその中心的存在でありました。中でも通幻さまが、先頭に立ち本山護持に務められました。明徳元年(1390)3度目の住持を務められた通幻さまは、1世代後の梅山聞本(ばいざんもんぽん)禅師(太源さまの直弟子)に住持職を譲るにあたり、「明徳の総持寺尽末来際条々御文」を作成しました。この中に、五哲の直孫がそれぞれ順次輪住して本山を護持することが記されてあり、これが五院の始まりとなったのです。当初1順(15年間)は、3年任期であったのですが、その後1年となり、半年となり、3ヶ月と任期が短縮され、明応9年(1500)よりは、1年を五院に分割し、5分の1にあたる日数を住持期間とするに至りました。そして、およそ90年後の天正15年(1587)以降、五院はそれぞれ輪番寺を設け、順次五院に晋住するようになりました。
しかし、その頃より、洞川庵を開かれた無端さまの門流は、次第に振るわなくなり、16世紀半頃より欠住が続き、法縁の助住によってどうにか維持されるという状態でした。このようなことから、正法寺教団の助けが必要となってきたのでした。16世紀半頃より、五院や洞川庵から総持寺へ晋住する依頼が何度か招来しました。しかし、なかなか交渉はまとまらず、ようやく江戸初期寛永8年(1631)正法寺教団協議して、洞川庵助住が決定したのでした。そして、寛永10年に岩手県花巻市瑞興寺陽山天朔和尚が輪住し、洞川庵への協力が開始されました。
その後115年が経て、延享3年(1748)廣見寺が正法寺に帰末することになり、廣見寺も輪番寺に加えられることになりました。そして、英峰さまが、宝暦5年(1755)に初めて洞川庵に輪住することになったのです。勿論、本山に輪住することなど初めてだったので、その当時の人達は大変な騒ぎだったと思われます。
英峰さまは、帰国後二月にして遷化されました。
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裏地に書かれた縁起 |
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2回目は、25年後安永9年(1780)天隆壽門さまが輪住されました。残念ながら壽門さまは、本山にて遷化されたということです。
3回目は、享和3年(1803)であったが、由あって辞退し、4回目、天保4年(1833)鐵山祖印さまが輪住されました。その輪住の記念に江戸在住の信者と思われる淀橋中野屋治郎兵衛氏(井元氏)が寄付した金襴衣が残っています。この袈裟の裏に、その縁起が書かれてありますが、この家では、100年前の英峰さまの輪住の時にも、袈裟を贈ったと書かれており、当時、その衣が残っていたとあります。
このように、三師が大本山総持寺に輪住して本山護持に勤めました。しかし、その裏では、経済的な負担も大きかったと言われています。
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