年代 | 月日 | 内容 |
天文九年 |
北条氏邦室、大福御前の父藤田右衛門佐康邦、今まで上杉氏の重臣とし て属していたが、北条氏の武蔵進出に耐えかねて、上杉氏を去り北条氏 に属する。 |
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天文十一年 | 北条氏邦室、大福御前の実弟弥八郎生まれる。後に、北条氏邦に毒殺さ れる。 |
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天文十五年 | 四月中旬 |
藤田康邦、北条氏康の子氏邦を養子とする。居城の秩父天神山城を譲り、 氏康は用土城に隠居し、用土新左衛門と名を変える。氏邦幼名、虎寿丸、 氏吉、秩父新太郎と名を変える。 |
天文十七年 | 藤田康邦、更に北条氏康の六男氏光を養子に迎える。 | |
天文二十四年 | 九月十三日 | 藤田康邦亡くなる。享年三十四歳。 |
永禄元年 | 大福御前の次弟、藤田能登守信吉が生まれる。 | |
永禄三年 | 北条氏邦、鉢形城を修復して当城に移る。同時に安房守に任官し、天神山 城は実弟氏光に譲る。 |
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永禄五年 | 四月六日 | 藤田右衛門佐邦房室、西福御前亡くなる。享年三十六歳。 |
七月中旬 |
氏邦、石戸の砦を囲むが攻略できず、帰城の途中上杉勢と合い、上尾宿で 戦う。敵将、字賀神定勝を討ち取る。 |
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永禄十年 | 十月六日 | 北条氏康、兵を率いて上杉輝虎を上野厩橋城で攻める。氏邦もこの時参 加する。 |
十一月一日 | 氏邦、榛名群御前田(現小前田)の大森越前守、長谷部兵庫助に、領民の 田畑開発を令す。 |
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永禄十一年 | 十二月一日 | 氏邦、長谷部備前守に領地の件を布達す。 |
永禄十二年 | 七月中旬 |
氏邦、武田氏の秩父侵攻に対し、武甲山に必勝祈願を行い、来太郎国光 の太刀を奉納し、更に社領永三貫の地を寄進する。 |
七月十一日 |
甲州勢、秩父侵入のさい、高手柄をなした阿佐美伊賀守に対し、氏邦感状 を送り、姓を朝見に改める様に申送る。 |
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同日 | 同じく、秩父郡薄村住の多比羅将監、出浦左馬守にも感状を送る。 | |
元亀元年 | 十月三日 | 北条氏康(氏邦の父)亡くなる。享年五十六歳。 |
元亀二年 | 十二月十五日 | 氏邦、寄居村聖天宮に寄進状を発する。 |
元亀三年 | 正月 | 北条氏政(氏邦兄)、氏邦に祇園城の小山秀綱を攻めさせる。 |
三月一日 | 氏邦、町田雅楽助に知行の証文を送る。 | |
三月五日 | 氏邦、朝見伊賀守に知行の証文を送る。 | |
三月二十三日 | 氏邦、榛名郡荒川村只沢の百姓に荒地開墾を令す。 | |
十月二十三日 | 氏邦、末野鐘撞堂山の鐘阿弥に、鐘打司を命ずる。 | |
十二月十五日 | 氏邦、六供村(榛名郡)極楽寺に北条氏邦寄進状を送る。 | |
天正二年 | 正月二日 | 氏邦、家臣町田雅楽助の書状を受け取る。 |
正月三日 | 氏邦、町田土佐守の書状を受け取る。 | |
三月十五日 | 氏邦、榛名郡荒川村の持田四郎左衛門に対し、住民の取り締まり強化を 令す。 |
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天正三年 | 六月十日 | 氏邦、榛名郡荒川村の持田四郎左衛門に対し、道具その他の取り締まり を令す。 |
天正四年 | 四月 | 北条氏邦より、西ノ入村薬師堂に鰐口を寄進する。 |
天正五年 | 六月中旬 | 北条氏政、小田原北条家の家督を長男氏直に譲る。 |
天正六年 | 北条氏邦室、大福御前の実弟弥八郎重連を氏邦毒殺する。 | |
天正七年 | 二月初旬 |
北条氏邦室、大福御前の次弟藤田能登守信吉、義兄氏邦の毒殺を察知し て、真田昌幸を頼り甲斐武田勝頼の家臣になる。 |
四月二十四日 | 氏邦、末野村小林寺に寄進状を送る。 | |
天正八年 | 四月十二日 | 氏邦、部下の塚本舎人助(上野在住)に知行十貫文を送る。 |
五月二十三日 | 氏邦、末野小林寺に制札を立てる。 | |
氏邦、滝山勢(東京都八王子の城兵)と常州谷田部の城を攻める。 | ||
義兄北条氏邦から離れ、武田勝頼の旗下に属した藤田能登守信吉は、沼 田の近隣を掌握して、勝頼より三庄都合五千七百貫を賜る。 |
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天正十年 | 三月十一日 |
武田勝頼、天目山で滅びる。沼田城は、織田信長の家臣滝川一益(関東管 領)にあたえたが、藤田能登守信吉はこれを不服とし、上杉景勝に自己の 所領と上杉の家臣になると言う事を進言したが、その直前に一益に知れて しまい城を攻められ、信吉は越後にのがれ上杉の家臣となる。沼田城は、 信長より真田昌幸に与えられる。 |
六月十五日 | 北条氏直、北条氏邦は信長の変死を知り、兵五万五千をひきいて上州に 入る。 |
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六月十九日 | 氏邦、滝川一益と神流川で戦うが戦利あらず、小田原勢氏邦に代わって戦 い幸勝する。 |
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六月二十一日 | 氏邦、岩田河内に感状を送る。 | |
六月中旬 |
滝川一益、上州を去る。上州は、北条氏の領土となる。しかし、真田昌幸の ひきいる名胡桃城は、依然として抵抗する。 |
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六月下旬 | 頑強に抵抗していた真田昌幸に対し、北条家より「本領安堵」の条件で真 田家は北条の摩下に入る。 |
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七月十五日 | 氏邦、赤見山城守に氏直の感状を伝達する。 | |
七月中旬 |
北条軍上州を発し信州に入り、徳川家康と対戦。その隙に真田昌幸、信州 及び上州に進出。更に芦田を介して徳川家康と結び、北条軍の背後を攻 撃する。 |
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九月中旬 |
真田昌幸、北条氏邦家臣の猪俣能登守が守る沼田城を、矢沢頼綱に攻撃 させ猪俣能登守を城から追い出し、昌幸沼田城に入城する。 |
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十月十二日 | 氏邦、沼田城を攻撃する。 | |
十月二十九日 | 信州遠征の北条軍、戦況不利の為、家康と和睦する。 | |
十月中旬 | 氏邦、沼田城兵の頑強な抵抗に対して、止む無く囲いを解き一旦鉢形城に 引き返す。 |
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天正十一年 | 三月十五日 | 氏邦、須田加賀守に褒状を送る。 |
三月中旬 |
氏邦長子東国丸亡くなる。立原村(現寄居町)東国寺に葬る。東国寺は、東 国丸の名に因んで命名する。 |
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氏邦、上州箕輪城を攻める。 | ||
天正十二年 | 二月二十八日 | 氏邦、野州足利の金尾、上州金山の由良を攻略すべく出陣する。兵力二千 二百。 |
七月二十八日 | 氏邦、利あらず戦線より戻る。 | |
天正十三年 | 八月十三日 | 真田昌幸、北条軍の第二次沼田来攻を知り、上州の属将に防備の訓令を 発す。 |
九月中旬 |
北条氏直自ら総指揮官になり、叔父の氏照氏邦を初め関東の武将総勢五 万八千人の大軍で、厩橋城(現前橋)に入り、沼田攻めの手配をなす。一 手は大将氏照二万人、一手は氏直自ら大将になり三万五千人、一手は氏 邦大将となり三千人の兵を率いて阿曽の砦に入る。 |
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氏邦の家臣猪俣能登守の軍、矢沢頼綱に謀られ全滅になり、猪俣命から がら逃げる。 |
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九月二十日 |
氏邦大いに憤り、大軍で潰さんと兵を田北の原に進める。しかし、矢沢の奇 襲に悩まされ多数の兵を失い、止む無く白井の原に引き上げる。 |
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九月二十八日 | 氏邦、矢野兵部右衛門に、沼田攻撃に対しての感状を送る。 | |
九月二十九日 |
北条軍、真田の軍に惨々に悩まされ、長期の包囲は不利だという事で、長 井坂の砦に猪俣、中山の砦に赤見山城守を残して、他全部は引き揚げる。 |
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天正十四年 | 五月五日 | 北条氏直は、三度沼田城を攻撃する。氏邦も出陣。 |
五月十日 | 沼田城将矢沢頼綱、寄せ手の先鋒氏邦に対し、皮肉な手紙を送る。 | |
五月十一日 | 氏邦、矢沢頼綱に返書を送る。 | |
五月十三日 | 豪雨が降り続く。 | |
五月二十五日 | 氏邦家臣の猪俣能登守が先陣を賜り、松田大道寺等と供に、片品川を渡 り沼田城を攻撃する。 |
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五月二十七日 | 大雨により河川が氾濫し、北条軍極度に悩まされる。 | |
五月三十日 | 北条軍、大雨の為に又しても沼田城奪取出来ず、不本意ながら囲いを解 き、引き上げる。 |
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天正十六年 | 五月中旬 | 豊臣秀吉、富田信宏を小田原城に派遣して、北条氏政父子に上洛を促す。 |
北条氏、徳川家康を介して秀吉と和す。 | ||
六月二十一日 | 北条氏政父子、十二月には必ず上洛する事を、秀吉に伝える。 | |
八月七日 | 氏政の使者、北条氏規小田原城を発す。 | |
八月二十一日 | 氏邦、荒川衆に万一籠城した場合の注意を発す。 | |
八月二十二日 | 北条氏規、京都に至り豊臣秀吉に合い、氏政上洛の条件として沼田問題 の裁決を勾う。 |
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十一月下旬 | 秀吉、妙音院を小田原に派し、再び氏政の上洛を促す。 | |
天正十七年 | 八月二十日 | 氏邦、荒川衆に軍地を令す。 |
九月一日 | 秀吉、北条征伐の注意を固め、諸将の妻子を京都に移動させる。 | |
十月三日 | 氏邦、宇都宮国綱と和睦する。 | |
十月二十四日 |
氏邦の家臣猪俣能登守は、真田昌幸の所領上州名胡桃城を奪取し、秀吉 の北条征伐の口実を作る。 |
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十一月二十一日 | 秀吉、真田昌幸に、信州上田城の厳守を命じ、更に待機態勢を令達する。 | |
十一月二十四日 | 秀吉、書を北条氏政に送り、絶交す。 | |
十二月四日 | 北条氏直、秀吉に弁疏状を送る。 | |
十二月十日 | 秀吉、京都に徳川家康、前田利家、上杉景勝等を集め、北条征伐の軍議 を開く。 |
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十二月十四日 | 秀吉、長束正家に命じ、食糧の事を掌らしむ。 | |
十二月三十日 | 北条氏直、鉄砲鍛治小田次郎右衛門に命じ、大筒二十挺を鋳造させる。 | |
十二月中旬 | 秀吉、「来春関東陣、御軍役之事」の軍令を全国諸将に発す。 | |
天正十八年 | 一月三日 |
徳川家康と北条氏の同盟関係で、家康の子督姫を北条氏直に送り婚姻関 係をしている事から、家康は秀吉に嗣子長丸(十二歳)を人質として送り、 二心なき事を秀吉に約束する。 |
一月五日 | 氏直、籠城準備の為に管内に令して、人夫三万人を集め、城内を修築す る。 |
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一月十四日 | 氏直、相模足利城も修築する。 | |
一月十七日 | 氏直、父氏政と、奥州仙台の城主伊達政宗に書を送り、佐竹義宣攻撃に 策す。 |
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一月二十日 |
小田原評定 小田原城に一族一門、並びに属城主を集めて軍議を開く。氏邦攻撃作戦を 強調するが、松田憲秀の籠城論に決定する。 |
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二月一日 | 秀吉、全国諸将に命じ、三月一日までに小田原集結を命ずる。 | |
二月五日 | この日より、秀吉軍の各諸将、小田原城に向けて出発する。 | |
三月七日 | 氏直、相模国逗子の百姓町人に対し、兵器を備えて軍に会せしむ。 | |
三月十八日 | 氏直、相模の屏風山要害を巡視する。 | |
三月十九日 | 秀吉、駿府城に入る。 | |
三月二十八日 |
秀吉、北畠信雄に韮山城攻撃を命ずる。 前田利家、上杉景勝、真田昌幸、松平康国の軍勢、上州松井田城を囲む 。 |
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三月二十九日 | 羽柴秀次、伊豆山中城を攻め、山中城落城する。 | |
四月一日 |
秀吉、箱根到着。 羽柴秀次、相模鷹ノ巣城を落城させる。 |
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四月三日 | 秀吉全軍、箱根を超えて小田原城を囲む。 | |
四月四日 | 武蔵鉢形城兵五百人、小田原援軍として鉢形城を出発する。 | |
四月五日 |
鉢形城兵、相模の萱野で徳川家康の家臣榊原康政の軍勢に発見され、苦 戦の結果山岸主膳之助捕虜、その他の者も討死、久長但馬辛うじて敵刃 を脱出して鉢形に戻り、氏邦に報告する。 |
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四月九日 | 小田原評定で氏邦の主張を破った松田憲秀、早くも秀吉と通ずる。 | |
四月十日 | 前田利家、上杉景勝等、上州松井田城の戦況を秀吉に報告する。 | |
四月十六日 | 松田康国等、上州松井田城を落す。 | |
四月十七日 | 上杉軍の先鋒、藤田信吉上州の国峯城を落す。その支砦岩崎も落す。 | |
四月十九日 | 前田軍の先鋒、上州の厩橋城を落す。 | |
四月二十日 | 松井田城落ちる。 | |
四月二十四日 | 前田利長、真田昌幸等、上州箕輪城を落す。 | |
四月二十五日 | 秀吉、関東の諸城攻撃に浅野長政、本多忠勝、平岩親吉等も加える。 | |
四月二十七日 | 浅野長政、武州江戸城を落す。 | |
四月二十八日 |
浅野長政、本多忠勝等、岩槻城に迫る。 又、相模の玉縄城主北条氏勝、秀吉に降参し城を開城する。 |
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五月一日 |
前田利家、上杉景勝等、武州川越城を落す。 続いて、武州松山城、深谷城、本庄城、八幡山城(児玉町)等も、次々と落 ちる。 |
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五月七日 | 淀君、小田原に着く。 | |
五月十三日 | 秀吉、前田利家、上杉景勝両将に鉢形城攻撃を催告する。 | |
五月十八日 | 上州白井城、下総佐倉城も落ちる。 | |
五月二十日 |
前田利家、上杉景勝等、武州鉢形城に殺到する。 秀吉、浅野、木村両将に、何故早く鉢形城攻撃に行かぬのかと、詰問状を 出す。 |
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五月二十二日 | 武州岩槻城落ちる。城内の婦女子を三の丸に閉じ込める。 | |
五月二十五日 | 秀吉、再び浅野、木村両将を催促する。 | |
五月二十七日 | 石田三成、長束政家等、武州忍城を囲む。 | |
五月二十九日 |
秀吉、三度浅野、木村両将を問詰す。 上杉の先鋒、藤田信吉軍と鉢形城兵の戦闘あり。鉢形松村豊前戦死する。 |
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五月三十日 | 浅野、木村両将、岩槻城より鉢形包囲軍に参加する。 | |
六月一日 | 北国軍(前田利家、上杉景勝等)の鉢形城包囲完了する。 | |
六月五日 |
伊達政宗小田原に来て、秀吉と合う。 秀吉、鉢形城攻撃の中間報告を聞く為に、前田利家、上杉景勝を小田原に 呼び寄せる。 |
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六月七日 | 石田三成、丸墓山古墳に登り、忍城水攻め構想を練る。 | |
六月九日 |
小前田越前守等、氏邦室大福御前及び氏邦末子光福丸を、鉢形城から脱 出させる。北国軍の鉢形総攻激態勢整う。 |
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六月十一日 |
本田忠勝、車山に石火矢発射陣地を整える。 真田昌幸、虎ケ岡城を落し鉢形の糧道を断つ。 石田三成、忍城水攻めの為に、荒川、利根川から水を引き入れる。 |
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六月十二日 |
藤田信吉、末野の正竜寺(藤田康邦、北条氏邦両将の菩提寺)に行き、良 栄大和尚に北条氏邦降伏を勧める話をする。 |
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六月十三日 | 鉢形城内で軍議、鉢形城開城を決する。城兵の生命保証を条件に。 | |
六月十四日 |
鉢形城開城。城主氏邦剃髪して僧衣をまとい、名を宗青と改め,主従九人 と前田の軍門に入る。鉢形城兵涙ながらに落ちて行く。秩父郡内の鉢形 城の出城、すべて開城する。 |
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六月十八日 |
鉢形城開城後、前田利家、上杉景勝等小田原に戻るが秀吉喜ばず、直ち に八王子城攻撃に向かわせる。忍城の築堤決壊し、逆に三成方軍勢二百 七十余命溺死する。 |
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六月二十三日 | 八王子城落ちる。 | |
六月二十四日 | 韮山城開城する。 | |
七月六日 | 秀吉、小田原城開城を命ずる。 | |
七月十日 | 徳川家康、小田原城に入る。 | |
七月十一日 |
秀吉、北条氏政、北条氏照、松田憲秀、大道寺政繁の切腹を命ずる。 忍城主成田氏長が小田原城にいる為、秀吉の命によりその腹心松田石見 を忍城に送り、忍城兵を説得し、ようやく忍城は開城した。 |
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七月十二日 | 秀吉、北条氏直が徳川家康の婿なる故に、高野山に放す。 | |
七月十三日 | 秀吉、諸将の論功行賞始まる。 | |
文禄二年 | 五月十日 |
北条氏邦室大福御前、鉢形城落城後藤田領民に迎えられ、菩提寺正竜寺 に入る。大福御前名を宗栄尼として、千日間に普門千部読誦の発願をなし 、その満願の日に自刃した。享年五十二歳。 |
慶長二年 | 三月十八日 |
氏邦末子光福丸に対し、秀吉より「十五歳になったら十万石を与える。」の 御朱印を賜る。同時に町田土佐守も一万石の御朱印を賜る。 |
八月八日 | 氏邦、金沢城内で亡くなる。享年五十七歳。 | |
八月二十六日 | 氏邦の遺髪をその家臣、町田右衛門佐康忠が金沢より持ち帰り、菩提寺 正竜寺に入る。 |
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八月二十八日 | 氏邦、三十七御忌の当日、その子光福丸以下参列し懇ろに埋葬する。 | |
九月 | 氏邦家臣町田右衛門佐康忠、氏邦墓前で割腹殉死する。 | |
慶長四年 | 七月十五日 | 氏邦末子光福丸亡くなる。 |
元和三年 | 三月五日 | 氏邦家臣、町田土佐守亡くなる。 |