『田村氏館』 |
![]() ![]() (左:館跡に残る土塁、右:寿老人・円福寺) |
![]() (土塁) |
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田村氏館は、円福寺の山門前の畑となった所にあります。鎌倉幕府の保護下にあったこの一帯を領し、円福寺前に 館を構えていました。小田原北条氏が滅亡し、関東に徳川家康が入国すると地侍となり、この一帯を治めていまし た。現在現存遺構は、当時の氏神様や土塁が残ってます。堀?(空堀か水堀)らしき物もあります。尚、寿老人・円 福寺は秩父七福神としても有名で、寺内の墓地には田村氏のお墓が残ってます。
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『敏桑館』![]() |
![]() (館跡裏に残る石垣) |
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荒川の河岸段丘上で、姥ヶ沢と八幡沢に囲まれた要害堅護な所にあります。水が蓄えられる水掘もあったようです。また、近くの愛宕山、雨乞山、治兵衛山等には砦があった様で、別名高根城とも言われていた様です。
今、館跡に住む新井治兵衛さんの書いた、「敏桑館」の本によると、武蔵七党の丹党の頃よりあったとされており、後に小田原北条氏の攻略にあった藤田重利が、永禄三年にこの館の人達に導かれて、この館の館主となったようです。この藤田氏は秩父氏に従っていた様で、小田原北条氏が滅び徳川の時代になると秩父は忍領となります。しかしまだ秩父氏は相当な勢力があったらしく、徳川家光の時代にこの藤田氏も、正月の料理に毒を入れられて、当主と乳呑子だけが残ったのみで死絶えたと言われています。館も焼かれてしまいましたが、四代前に分家した藤田氏が、焼かれた館の後方の堀を埋めてあらたに館を作り、新井姓の家から妻を迎えて妻の姓となり、現在に至ってると言う事です。なお、この事件は徳川幕府の為にこの世から葬られてしまいました。 この館について、ちょっと疑問に思う点があり、今頭の中がこんがらがっていますので、また本を読み返して見たいと思います。 |