『田村氏館』

(左:館跡に残る土塁、右:寿老人・円福寺)

(土塁)
〇場所 埼玉県秩父市田村
〇現存遺構 土塁、空堀(?)
田村氏館は、円福寺の山門前の畑となった所にあります。鎌倉幕府の保護下にあったこの一帯を領し、円福寺前に 館を構えていました。小田原北条氏が滅亡し、関東に徳川家康が入国すると地侍となり、この一帯を治めていまし た。現在現存遺構は、当時の氏神様や土塁が残ってます。堀?(空堀か水堀)らしき物もあります。尚、寿老人・円 福寺は秩父七福神としても有名で、寺内の墓地には田村氏のお墓が残ってます。



『滋野氏城』

(本丸)
〇場所 埼玉県秩父市下影森
〇現存遺構 本丸、腰曲輪、掘り切り
滋野氏城は、一般に地元では「長者屋敷」と言われていて、札所27番から桜の名所羊山公園までを繋ぐ、「琴平ハ イキングコース」のコース内に入っています。滋野氏城の手前には、護国観音や札所26番岩井堂などもあります。 鉢形北条氏邦の家臣滋野形部の居城した城で、一説には天正18年の豊臣攻の鉢形城攻撃の時、落城寸前の鉢形城か ら裏切り逃げ出した、と言う話しも残っています。虎ヶ岡城に行った時もそうでしたが、ハイキングに来た一般の 人達は、多分城跡の中を歩いているとは思わないんでしょうねー。

(左:本丸横の掘り切り、右:腰曲輪)

(札所26番岩井堂)



『室山城』

(室山城遠望)
〇場所 埼玉県秩父群荒川村久那
〇現存遺構 本丸、腰曲輪
室山城は、近年出来ました浦山ダムの横にある、標高705mの山頂にあります。上の写真から見ても分かりますが、 城跡からの眺めは完璧で、秩父市内が手に取る様に分かりますし、武甲山の裏の名栗村から荒川村に抜ける峠や、 奥秩父も良く見えます。 「秩父志」などには城跡の山の絵が出てますが、他の文献には「平将門」や「藤田重利」、「大胡氏」などを上げ てますが、詳しい事は良く分かってません。しかし、城跡に行くと、殆ど人の手が加えられない山の山頂部分なの で、遺構が当時のままで残っています。本丸の城壁や腰曲輪など、やっとの事で城跡にたどり付いた時は感激しま した。城跡から秩父市内を眺めながら食べるおむすびは、最高に旨いです。

(左:本丸の城壁と腰曲輪、右:腰曲輪に張り出し、頭上攻撃を狙った曲輪。)



『敏桑館』

(館跡裏に残る石垣)
〇場所 埼玉県秩父市久那1959
〇現存遺構 石垣、水掘
荒川の河岸段丘上で、姥ヶ沢と八幡沢に囲まれた要害堅護な所にあります。水が蓄えられる水掘もあったようです。また、近くの愛宕山、雨乞山、治兵衛山等には砦があった様で、別名高根城とも言われていた様です。

今、館跡に住む新井治兵衛さんの書いた、「敏桑館」の本によると、武蔵七党の丹党の頃よりあったとされており、後に小田原北条氏の攻略にあった藤田重利が、永禄三年にこの館の人達に導かれて、この館の館主となったようです。この藤田氏は秩父氏に従っていた様で、小田原北条氏が滅び徳川の時代になると秩父は忍領となります。しかしまだ秩父氏は相当な勢力があったらしく、徳川家光の時代にこの藤田氏も、正月の料理に毒を入れられて、当主と乳呑子だけが残ったのみで死絶えたと言われています。館も焼かれてしまいましたが、四代前に分家した藤田氏が、焼かれた館の後方の堀を埋めてあらたに館を作り、新井姓の家から妻を迎えて妻の姓となり、現在に至ってると言う事です。なお、この事件は徳川幕府の為にこの世から葬られてしまいました。

この館について、ちょっと疑問に思う点があり、今頭の中がこんがらがっていますので、また本を読み返して見たいと思います