『山田氏館』
◯場所 埼玉県秩父市高篠木戸原
◯現存遺構 なし
山田氏館は、武蔵七党の丹党に属していた、山田志麻守の館です。現在の高篠小学校の場所が館跡です。田端達輔 氏が続系と言われていますので、家に伺い聞いて見ました。 「高篠小学校の建つ前は、そこには大きな家があったと言います。そこには井戸が5ヶ所あったと言い、墓地も何 ヶ所かあったと言う事です。青石塔婆も二基その場所に在り、現在は田端氏の墓地に移動して在りました。またそ の墓地の所には、田端氏の氏神様である山神社が在り、元久六年の文字が見られ、鎌倉時代の物である事が分かり ます。田端達輔氏宅は、元は山田氏館の馬屋があった所だと言う事です。」 地名では、この一帯を木戸原(城戸原)と言い、、館跡横に流れる沢に架かる橋を城戸橋(城門橋)、他に向城門など の地名も残っています。新編武蔵風土記稿には、「東は山、南西は道をへだてて畑、北は木戸原沢」と言う事が書 かれています。なお、秩父郡内特に高篠地区には田端の苗字の家が多く、自分の御袋の実家も田端達輔氏宅のそば に在る事から、田端の出は達輔氏宅である事が分かります。



『遠山氏館』
◯場所 埼玉県秩父市山田木戸原
◯現存遺構 なし
遠山山城守(又は信濃守)の館で、やはり武蔵七党の丹党に属していました。現在館跡に住んでいます関根さんは子 孫の方です。しかし、世代交代の為に詳しい事が分からなくなっています。館内には杉の大木が在り、その杉の下 には、山城守の愛用していた武具甲冑が埋められていて、掘れば異変が起こると言われていましたが、近所の人に 聞いた所、枯れてしまったと言う事です。また近くの三光院と言うお寺の跡には、関根家の墓地が在り、山城守に 関係があると思われる古い形の五輪塔が二基残っています。



『加治氏館』

(左:馬場跡の壁、右:馬場跡)
◯場所 埼玉県秩父市山田2076
◯現存遺構 館跡、馬場、馬場跡の壁、金山神社
この加治氏は、秩父郡中村郷に住んでいた、丹党中村三郎貫主経房の同属、武信の孫、峰時が高麗郡 加治郷に住み、加治氏となったそうです。その後、永禄元年(1504年)の川越合戦後に、その直裔の加治新五郎がこ の場所に来て館を作り、鉢形北条氏邦の家臣となったと言う事です。 館は、沢によって館跡と馬場の跡に分かれています。上の写真は馬場の跡で、その壁面は近代城郭の忍者返しの様 に反っていて、高さもあります。ここの馬場跡には、加治氏の武器職(鍛治)であった島田氏宅があり、近くに鍛治 の神様である金山神社があります。この馬場の前には大槻川が流れています。館の跡は、上の左写真の奥に在りま す。そちらも館の回りは、綺麗な壁面になってますが、館跡は整地されていません。加治氏は後に絶えてしまいま したが、関係者の方々が五輪塔を館跡に建て、供養しています。近くには池などのあった所も残っています。 加治氏館の近くには光明寺があり、加治新五郎の開基と言われ、丹党の氏守様である丹生明神を祀る丹生社があり ます。



『秩父平四郎行高館』
 
(左:秩父平四郎行高館遠望、右:金讃権現の小祠)
◯場所 埼玉県秩父市大字小柱
◯現存遺構 なし
秩父平四郎行高館は、荒川と赤平川の合流地点の台地上にあります。館跡内には、遺構はありませんが(もしかして、土塁か虎口かもしれない所はあります。)、当時を物語る地名や言い伝えが残されています。秩父平四郎行高は、武蔵七党の児玉党児玉経行の四男とされ、秩父重綱の養子となったとされています。館跡内には、それを証明する児玉党の守り神である、金讃権現の小祠が塚上にあります。またこの祠の回りは以前は桑畑だったとされ、行高の屋敷跡、釜の跡、井戸の跡が残っていたとされていますが、今は一面畑とな
り、何処にあったのか分からない状態になっています。地名としては、堀切、堀之内、矢来瀬、殿浦などがあり、屋号では、鍛冶屋、御厨、釜屋などが残っています。また、館跡内にある諏訪大神社には秩父八幡社が合祀されていて(以前は近くの消防団の詰所の所にあったらしい。)、秩父氏とも関係が深い事が良く分かります。また、近くの長島氏宅には、秩父八幡社の祭礼の時に掲げてきたとされる白旗があります。その白旗は、秩父十郎武綱が後三年の役で使用したと言い伝えられています。
 
(左:秩父八幡社が合祀されている、諏訪大神社)
(右:以前秩父氏関係の人の馬の鞍が奉納されていたと言う、薬師堂)