《秩父氏館》

(秩父氏館遠望)
○場所 埼玉県秩父郡吉田町大字下吉田
○現存遺構 無し
この秩父氏館は、桓武平氏将恒が武蔵権守に任命され、今の秩父市中村町に館を構え秩父氏を名乗った。その子十 郎武基が秩父牧別当兼ねると、吉田町に移り、武基の子武綱が秩父氏館を築いたと言われています。三代目の重綱 は、武蔵留守所総検校職に任命され、秩父氏は武蔵国の中心的勢力になった。また、武綱の子孫はそれぞれ武蔵国 内に移り、畠山氏、河越氏、豊島氏、葛西氏、江戸氏などを出した。重能の時に、今の埼玉県大里郡川本町に移り 、畠山氏を名乗った。重能の子があの有名な、畠山重忠です。 戦国時代には、初めは上杉氏に従えていたが、後に鉢形城主北条氏邦に従がえた。秩父氏の中心的人物は、秩父孫 二郎と言い、鉢形城の三の丸に屋敷を構えていました。また、秩父孫二郎を中心とした軍団を秩父衆と言い、鉢形 北条氏邦の精鋭部隊だったと言います。天正18年の北条征伐により、鉢形城が豊臣秀吉軍団によって落城すると 、秩父孫二郎は本知行の吉田町に帰り、彦久保氏と名を改めました。子孫の方が現存し、彦久保氏宅には秩父氏の 系図や、甲冑が現存しています。 秩父氏館の現存遺構は、館址に小学校が作られてしまい、確認出来無い状態です。
吉田町の椋神社) 永録12年の武田信玄の侵攻により、焼失しました。(信玄 焼きと言い、秩父郡内の神社などが多く焼かれてしまいまし た。)その後、北条氏邦により再建されました。椋神社には 、氏邦より寄贈された筋甲(伝氏邦着用)が、社宝として残 されています。また、明治17年11月1日の夕方、ここ椋 神社の境内に農民3000人が武器を持って集結しました。 あの有名な秩父事件の発祥の地としても知られています。
(吉田の龍勢祭り) また、椋神社の例大祭(毎年10月の第2日曜日)として、龍勢祭りが行わ れます。この龍勢の元は、烽火だと言い伝えられています。吉田バイバスの すぐ横に、道の駅と共に龍勢会館が作られて、いつでも龍勢祭りの様子が分 かる様になっています。(火曜日定休日。9時−16時30分。小人150 円、大人300円)
青空に響音と共に舞い上がる龍勢、皆さんも見て見ては如何ですか。
(八幡宮) この八幡宮は、元は秩父氏館内にあったもので、小学校建設に伴ない、椋神 社境内に移されたと言います。八幡大菩薩を、秩父氏は代々氏神様としてい た様です。今の秩父氏館址(吉田小学校)に残る、大欅の前に元はあった様 です。
(吉田町歴史民俗資料館) ここには、龍ヶ谷城(吉田の盾)付近で発見された古銭や、 同じく龍ヶ谷城の根古屋で発見された、陶器などが展示され ています。また、秩父氏の子孫の彦久保氏宅に保存されてい る甲冑と同時期の物だと言う、甲冑も展示されています。 開館は、日、水、金曜日で、9時ー16時まで。無料です。