『永田城』 |
![]() ![]() (左:水掘と大手の虎口、右:大手脇の土塁) |
◯現存遺構 土塁、水堀
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永田城は、武蔵七党の一つ、丹党に属していた中村氏によって作られた城だと言います。丹党は、武蔵七党の中心的な武士団で、中村氏は、今の秩父市中村町に本拠地があった。秩父神社の再建にも多いに活躍した。後に武蔵国の留守所総検校職に成る、秩父氏の基となった。永田城は後に、小田原城の出城で、埼玉県寄居町の鉢形城主北条安房守氏邦の家老、井上三河守が城代として居城した。現在城内には、札所22番永福寺があり、現存の土塁上には虎口がはっきり分かり、水堀が水田と成って良く残っています。(県指定重要遺跡)尚、近くの光正寺には、中村氏の名前が入った板石塔婆(県指定史跡)が残っています。 |
![]() (延慶の青石塔婆) |
この延慶の青石塔婆がある所は、金昌山光正寺があった所で、七堂伽藍がある大きなお寺があった所です。永 禄12年の武田信玄の秩父進入により焼かれた。(信玄焼)その後再建されたものの、昭和17年に漏電によりまた 火災にあい、今は無住職の小さなお寺になっています。この青石塔婆には、中村氏の名前が在る事から、鎌倉 時代の武蔵七党の一つ、丹党の中村氏の供養の為に建てられた事が分かります。又、中村氏はこの光正寺を厚 く信仰していたと思われます。尚、中村氏のお墓は秩父市中村町に残っています。
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『寺尾城』 新城郭 |
![]() (大手の虎口) |
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寺尾城は、最近見つかった城跡です。今まで、地元の人達に語り継がれて来た城で、他の文献上には一切登場 しない城です。荒川に注ぐ沢と荒川に挟まれた先端上に在り、城跡の両端は切り立った崖となっています。城 跡の前方に虎口が在り、虎口の両端に土塁と空堀が在ります。丁度下でも説明しています、宮崎城に似たお城 です。永田城にも近い位置に在りますので、永田城の城主の家臣が住んでいたのかも知れません。詳しい事は 何も分から無い城です。尚、城内には「寺尾大明神]が祭られています。
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![]() ![]() (左:大手部分の空堀、右:城内) |
大手部分の空堀は、埋まってしまい大部浅くなってしまっています。城内ですが、荒川に注ぐ沢が丁度城跡の 所でカーブしている為に、大部城内が崩れてしまってる現状です。
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『宮崎城』 |
![]() ![]() (左:大手虎口の土塁、右:大手土塁前の空堀が、縦堀になり荒川側に落ちます。) |
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宮崎城は黒沢民部の居城(鉢形城主北条氏邦の家臣で、禄高30貫の侍大将だったと伝えられています。)室 町時代の築城で、小規模な砦ながら保存状態は良く、自宅より一番近い城跡です。宮崎城は、永田城、鉢形城 などと同じく、城の両脇を川で挟まれた、河岸段丘上にあります。宮崎城のすぐ横には「古秩父往還」があり 、宮崎宿があった様です。今でも当時の小路が残っています。後、宮崎城の周辺より、縄文式の土器の破片が 多く出土している事から、太古より人々が住んでいたと思われます。
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![]() ![]() (左:滑沢は、宮崎城の近くで滝になっています。右:古秩父往還) |
宮崎城の水堀代わりになっています滑沢は、宮崎城の所で蛇行して荒川に合流します。今はどぶ川になってま す滑沢は、かつてはシジミやウナギが捕れて、洗濯なども出来たと良います。(父親談)古秩父往還は諏訪城の 近くを通り、今の秩父農工の中を通り、宮崎宿を通り(宮崎城の横)、札所19番の横を通って丹党中村氏の本拠 地である中村町に繋がっていたと言います。
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![]() (ほらね。(^ ^)) |
当日も見つけました、縄文式土器の破片です。 注意:宮崎城前は畑となっておりますので、畑の中に入り作物を荒らさない様に注意してください。畑の回りを 見て回る程度にしてください。
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『諏訪城』 |
![]() ![]() (左:諏訪城遠望、右:諏訪城本丸跡に有る、諏訪神社) |
![]() (二の丸前方に有る、折の有る土塁と空掘) |
![]() ![]() (左:城跡を遮断している秩父鉄道、右:三の丸の空掘と土塁) |
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諏訪城は、諏訪民部之進と言う人物が城主で、鉢形城の北条氏邦の家臣の中に、筆頭家老の諏訪部遠江守定勝がいるので、やはり諏訪城も鉢形城の支城の一つと言える。この諏訪城も、鉢形城、宮崎城 などと同じく、荒川と横瀬川の合流する地点の河岸段丘上に有る。二の丸前方には、折りを付けた土塁や空堀(水堀かも?)が良く残り、折りを付けた奥の部分に虎口がある。本丸には、諏訪神社が有 る。ここで注意して欲しいのが三の丸で、城の中央を秩父鉄道の線路が切断しているので見逃す方が多い見たいです。三の丸は横瀬川側に有り長方形をしていて、回りを土塁で囲んでいます。南方に虎 口が有り、そこが大手ではないかと思われます。(県指定重要遺跡) |
『金仙寺城』 |
![]() ![]() (左:折の付いた土塁、右:虎口) |
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日本城郭大系(埼玉、東京)にも載っている金仙寺城、その本を買ったのが中学生の頃でしたが、行った事が無 く先日初めて行きましたが、「おおおー」と騒いでしまいました。遺構が完璧に近い形で残っています。2m 位の土塁が約110m続き、一部折を付けてます。その折を付けた土塁のすぐ横に虎口があり、土塁の所々には 石垣が残っています。土塁と平行して空堀も残っていて、この空堀が下段の二の丸の前に縦堀の様に続いてい ます。本丸には井戸跡も残っています。下段の二の丸も本丸と似た虎口があるのですが、その虎口の前に本丸 から続く空堀が来てますが、土橋が無く木橋でも掛けたのでしょうか。この金仙寺城も秩父地方特有の城で、 左は荒川、右は押堀川に挟まれた台地の先端部分にあり、両側が崖となっています。日本城郭大系では館とし て紹介されてますが、行って見れば分かりますが、造りがどうも城と言った感じです。
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![]() ![]() (左:井戸跡、右:各所に残る石垣) |
尚、城跡前の金仙寺には、甲斐の武田氏と関係があるらしい「原隼人守」のお墓や、あの秩父事件で困民党総 理になった「田代栄助」のお墓も残っています。
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