《大渕氏館》(別名金室氏館)

(折を付けた石垣が今も残ってます。)
◯場所 埼玉県秩父郡皆野町大字大渕
〇現存遺構 石垣、門の礎石
大渕氏は、武蔵七党の児玉党に属していて、この地に館を構えていました。後に大渕氏は、上野へ移動しています。その館跡に移住したのが、鉢形城で刀鍛冶をしていた金室氏です。今も金室氏の子孫の方が健在で、当時の館跡を残した自宅が健在しています。自宅裏には、刀鍛冶だった事を証明する金山明神が祭られています。以前はくぐり門もあったらしく、門の礎石も2つ残されていました。
左の写真は元の玄関で、この前にあった踏み石も残されていて、当時を偲ばせてくれます。右の写真は自宅内 に保管されてます、長槍です。(右の写真の鉄砲は、火縄銃ではありませんので、お間違いなく。)
これは小田原北条氏政が、北条氏邦に宛てた書状です。内容は良く分かりませんが、話によると、小田原城が 落城するちょっと前に、氏政が氏邦に送った書状だと言う事です。書状の中には、真田、佐竹、滅亡などなど の文字が読み取れます。直に書状を見たのは初めてで、大変感激しました。後、秩父に由緒ある平賀源内の書 状もあり、そちらも見せてもらいました。



《金崎殿館》

(左:館跡内にある金崎氏の墓所、右:砦跡)
◯場所 埼玉県秩父郡皆野町大字大崎
〇現存遺構 館跡に五輪塔、砦跡に空堀
この金崎殿館は、鎌倉時代に伊予の国から落ちてきた、金崎十郎左衛門信昌が構えた館だと言います。今もこ の地に残る獅子舞は、信昌が自作して奉納したのが始まりだと言われています。左の写真の所に、信昌の五輪 塔があり、この辺一帯を馬場と言われています。墓所の隣の家の方に聞いた所、多分子孫ではないかと言って いましたが、資料等が残されてなく詳しい事は分からないと言っていました。右の写真はこの館の砦(根岸山 砦)だと言い、空掘りが残されていると言う事です。



《千馬山城》

(左:本丸すぐ横の空堀、右:野面積みの石垣)
◯場所 埼玉県秩父郡皆野町大字三沢芹荷沢
◯現存遺構 空堀及び竪堀(約20ヶ所)、石垣、本丸、二の丸三の丸
千馬山城は、後北条氏が秩父郡に勢力範囲を広げる前は、関東官領上杉氏の四家老の一人、花園城主藤田重利 の出城でした。藤田氏は、代々寄居町から秩父郡一帯を領地にしていましたが、主家の上杉氏が衰退すると、 後北条氏の勢力に耐えきれず、小田原北条氏康の三男北条氏邦を、養子として迎え、娘の大福御前を氏邦に嫁 がせた。このことに寄り、秩父郡内に有る藤田氏の城や領土は、北条氏邦の領土と成った。千馬山城もその城 の一つです。この城は、竪堀(2重竪堀など)、空堀、木戸が多く、永録12年、武田信玄の別動隊が攻めて来 た時も(三沢谷の合戦)落城せず、持ち応えた。そうした事からこの城の近辺には、戦場と言う地名が今でも 残っています。県指定重要遺跡



『小池氏館』

(庭園)
◯場所 埼玉県秩父郡皆野町大字皆野大塚
◯現存遺構 土塁、庭園
室町時代に、甲州より移住して来た小池佐馬助光里が、この地に居館を構えたのが始まりだと言います。その 後、養子に迎えた弥八郎は、鉢形城の北条氏邦に仕えたと言われている。弥八郎の子栄算は、福王寺を開基し たり、郡内第一と言われている庭園を作ったり、この辺一帯を開拓したり、栄算以来代々皆野村の名主を勤め た。