《花園城》

(花園城全景)
○場所 埼玉県大里郡寄居町末野
〇現存遺構 本丸、二の丸、三の丸、東の曲輪、空堀、竪堀、石垣
花園城は、もと武蔵七党の一つ、猪俣党から出た藤田氏の築城と伝えられています。藤田氏はこの地を本拠地 として、藤田郷と秩父一帯に勢力をのばしていました。延々と15代400年続いた藤田氏も、戦国時代に主 家であった山内上杉氏が圧迫されだすと、藤田氏15代の藤田重利(康邦)は、本拠地を花園城からより要害 性に富む天神山城に移しました。その後、主家の山内上杉氏が衰退すると、小田原北条氏康の三男氏邦を養子 として天神山城に迎え、藤田重利(康邦)は隠居して用土城(埼玉県大里郡寄居町用土字高城)に入りました 。天正18年の豊臣秀吉の小田原攻めの時、上杉景勝、前田利家、真田昌幸などの大軍で鉢形城が包囲され、 3ヶ月後に落城すると、花園城も敵の手に落ちたと言います。
 
(左:本丸左側の堀切、右:本丸)

(城址に残る、虎口のある石垣)
花園城の特徴は、斜面に対して二重に掘られた竪堀や、石垣や、曲輪が多様されています。竪堀などは、落ち 葉や土で大部浅くなってますが、かつては大部深い堀であったと思われます。本丸、二の丸、三の丸、東の曲 輪は深い堀切で分断してあり、現在でも深い堀切を確認できます。三の丸の虎口は折りが付けられていて、迫 力がありました。花園城は、とにかく遺構が多く残されていますので、皆さんも出掛けて見ては如何でしょうか。



《花園御岳城》

(横堀)
○場所 埼玉県大里郡寄居町大字末野字八王子2094
〇現存遺構 本丸、二の丸、空堀、縦堀
ここ花園御岳城は、五百羅漢で有名な少林寺の裏山にあります。有名なハイキングコースになっている事もあ って、五百羅漢のコースは大勢の人とすれ違いました。しかし。城跡に行くにはちょっとコースからはずれる 事もあって、誰もいない寂しい所となっていました。本丸部分は御岳城と言う事もあり、横瀬町の小御岳城と 同じく、石碑が多く立っていて、戦国時代以降は信仰の山だった事が良く分かります。
 
(左:武者溜まりと思われる横堀、右:後方高い部分が本丸)
花園城の裏にある花園御岳城、花園城より標高が高く、花園城内を見渡されてしまう為に作られたと言われています。確かに花園城の本丸からすぐ裏に見えますこの花園御岳城。城内を覗かれそうな雰囲気がありました。しかし実際に花園御岳城に登って見ると、花園城が遠くに見えるー。現代の様な双眼鏡が無かった戦国時代、覗かれる為にこの山に城を作ったのだろーか?? やはりここは狼煙の中継地点だった様な気がします。遺構的には本丸を中心として、横堀縦堀があり、なかなか面白い工夫が随所に見られ面白かったです。武者溜まり的な横堀には感動。

(謎の段築)
今回お城好き、藪掻き好きなメンバーの方と御一緒して探索に行った訳ですが、二の丸の下にこんな物を見つけました。何重にも続く段築です。これは花園御岳城の遺構による段築なのか、第二次世界大戦の時の食料不足による、段々畑を作ったものなのか討論してました。同じ物が花園城にもあります。



《金尾要害山城》

(金尾要害山城遠望)
〇場所 埼玉県大里郡寄居町大字金尾字要害山
〇現存遺構  本丸、二の丸、三の丸、縦堀、石垣、堀切
この金尾要害山城は、秩父方面から鉢形城の大手方面に向かう、金尾峠を抑える為に作られた城で、峠の頂上部分 を城内に取り入れた特殊な城です。ここも鉢形城の出城で、武蔵七党の一つ猪俣党に属していた金尾氏の末裔、金 尾弥兵衛が守っていた城です。北条氏邦の印判状では、この城の近くに磔小屋を設置したと言います。

(二の丸と、愛宕神社の後方が本丸。ここからは、付近の城が良く見えます。)
 

左の写真は三の丸の石垣で、三の丸の壁面に多様されています。右の写真の以前は、車がやっとすれ違える程度の道幅で、卍型の様に屈曲していましたが、現在は道幅を拡張してしまい迫力が無くなってしまいました。この場所が、峠道を城内に入れた堀切部分です。