《天神山城》

(二の丸より、本丸に建てられた模擬櫓を見る)
◯場所 埼玉県秩父郡長瀞町岩田井戸
〇現存遺構 本丸、二の丸、三の丸、出郭、空堀、竪堀、石垣
この天神山城は、山内上杉氏の重臣でこの辺一帯を収めていた、藤田重利(のちの康邦)の築城と言われています 。初め藤田氏は、埼玉県寄居町末野の花園城を本城(400年間、15代まで)としていましたが、小田原北条氏 に主家の山内上杉しが圧迫されだし、より要害性にとんだこの天神山城を築城して、藤田氏の本城としたと言う事 です。そののち、主家の山内上杉氏が衰退すると、北条氏康の三男氏邦を養子として迎え、この天神山城に入った と言われています。その後氏邦は、鉢形城を大改修して、鉢形城に入り、天神山城へは、北条氏康の六男氏光が入 ったと言われています。
 
(左:三の丸の櫓があったとされる部分の石垣、右:二の丸下方にある出郭の空堀)
めめめ上の城郭図は、秩父の代表的な郷土地誌の「秩父志」 の中に載っている天神山城で、出郭は出城として書いてあります。(矢印部分)お城関係の本によっては、出郭は表示されて無い物も多く、今回の調査で出郭の存在を確認出来ました。空堀や郭が多く残っていました。疑問に思ったのは、山腹部分の遺構には石垣が多様されていますが、この出郭では確認出来ませんでした。築城時期が違うのか?藤田康邦から北条氏邦に城主が変わってから作られたのか?また、疑問が残る今回の調査でした。
今現在は、山腹部分の遺構は大部破壊されてしまいましたが、斜面や本丸裏や出郭にはまだまだ遺構が残っています。模擬櫓には入れますが、倒壊寸前ですので気を付けてください。



《虎ヶ岡城》

(虎ヶ岡城遠望)
〇場所 秩父郡長瀞町大字矢那瀬
〇現存遺構 本丸、腰曲輪(多数)、掘り切り、井戸跡
虎ヶ岡城も鉢形城の出城の一つで、天正18年の豊臣勢による鉢形城攻撃の時には、氏邦の家臣で矢那瀬大学が約10 0人の兵でこの城を守った。この城の役目として、埼玉県大里郡美里方面からの兵糧を、この城から鉢形城へ運ぶ 役目を果していたと言われています。その事を知った豊臣勢の真田昌幸は、この城を攻め落としたと言う事です。 その時この城を守っていた矢那瀬大学は落ち延びて、城下の矢那瀬に住み、名前を野原と改めたと言われています 。今日、虎ヶ岡城に行った時も、矢那瀬大学の子孫である野原氏宅に寄り、城跡までのルートを聞いてから行きま した。正面の矢那瀬側から登ると大変きついと言う事で、林道美里陣見山線(舗装路)で途中まで登り、東屋のある 所に車を置き、そこから山に入り、徒歩で約20分で虎ヶ岡城に着きます。この辺一帯はハイキングコースになって いて、大変歩きやすいです。
 
(左:東の腰曲輪から見た本丸、右:本丸の虎口)
 
(左:本丸南側の腰曲輪にある木戸跡、右:掘り切り)
本丸から見ると、丁度真正面に金尾要害山城が見え、秩父方面に天神山城、鉢形城方面に花園御岳城、東の方角には猪股城も見え、狼煙伝達のルートが確かに良く分かる。

(虎ヶ岡城に見事に残る井戸跡)



『犬塚』
場所 埼玉県秩父郡長瀞町上下郷
天正の昔、八匹の軍用犬が、鉢形城と秩父郡内の各支城の間を、飛脚の役を負って大切な文書を首にさげて、走り回っていました。豊臣秀吉軍の攻撃による、天正18年の鉢形城落城によ
り、主を失った八匹の犬達は、餌も無く喉の渇きを潤す為に、沢の水を飲もうとしたが四匹が力つきて渕に落ちて死んでしまった。そこを見たこの地の人達が、葬ったのだと言います。


『仲山城』

(左:仲山城遠望、右:日本一の青石塔婆)
○場所 埼玉県秩父郡長瀞町大字野上下郷小坂
○残存遺構 堀切、土塁、本丸、二の丸、三の丸
仲山城は、前方に荒川、後方は陣見山に囲まれた独立山にあります。初代城主、阿仁和兵助基保夫妻は子供がなく、神様に祈願した所夜、神様のおつげがあり、大和の国を去りこの地に着
いたといいます。2代目城主、兵衛直家の時に侍女との恋のもつれで、武蔵秋山城主、秋山新九郎に攻められ落城しました。その時、城主の直家は討死しました。後に直家の奥方は、夫の
13回忌の時に再びこの地に訪れ、夫の供養の為に建てたのが、上の写真の『日本一の青石塔婆』(県指定旧跡)だそうです。高さ5.35m、幅1.2mある。城下には、馬廻し、馬場平
、御殿池、岩幕などの地名が残っています。尚、城下には旧秩父往還が残っています。下記は高校時代、部活同で合宿を兼ねてこの地区一帯の、総合調査を行いましたものです。(郷土文
化第19号より)

(巻尺を使って計測しました仲山城図)

(仲山城近辺図)

(仲山城近辺に残る地名)
岩幕 敵兵である秋山の兵隊が、仲山城の右にある山の中腹の岩に幕を張り、その岩の裏で太鼓などを鳴し、敵兵が居る事を知らせ、城中より矢を射らせ、城の兵力を失わせてから城中に攻め込んだと言われています。今でもこの岩は現存していると言います。
馬廻し 馬を乗り回した所だと言います。馬廻し橋と言う橋があります。
馬乗り 樋口河原の川の中に、人が岩に乗った様な岩が在ると言います。
馬場平 現在の野上第二小学校辺りで、当時はそこに馬を乗りこなす溜めの練習場の馬場があったと言います。
御殿池 城主の居館跡。所在地不明。
経塚 お経を埋めた塚だと言います。所在地不明。
樋ノ口 白鳥橋の近くで、山の迫ったちょうど入り口みたいになっている所。後にこの名が縮まり樋口になったと言います。
男池 居館跡。現在でも池が残っていると言います。
女池 居館跡。現在埋め立てられて、家が建っています。
八寺沢 阿仁和兵助基保は信仰家で、各地の国分寺を参拝したと言われています。仲山城築城後、関東八ヶ国の国分寺になぞられハッ津の堂字を建立した事で、八寺沢と名が付いたと言います。
(その他)
諏訪神社 信仰心の厚かった阿仁和兵助基保が、信州一之宮の諏訪大明神を歓請し、ここの祀ったと言います。
西光寺 二代目城主、阿仁和兵助直家の奥方芳野御前主従がこの寺に来て、夫の十三回忌を拝み、供養の青石塔婆を建てたと言います。
石切り場 鎌倉期から関東各地に分布した、青石塔婆産出地。
(城下の仲山城研究者)
野原治朗右衛門氏 このお宅には、6代目の野原治助右衛門著書の、「信柳利生鑑」と言う古文書があり、仲山城の歴史や青石塔婆の由来が、物語風かれています。
故四方田美男氏 自宅に郷土研究所を作り、自ら郷土研究所長をしていた。有名な「鉢形落城哀史」の著者。
故日下部朝一郎氏 郷土研究家で、数々の出版物を出しています。「秩父の石仏」、「秩父の峠道」など。埼玉県郷土文化会理事、長瀞町文化財専門調査委員などもしていました。