『今は無き、高松城』
埼玉県秩父郡皆野町大字下日野沢道三
秩父地方は石灰岩の採掘地域が多い為、所々で自然破壊が進んでいます。ここで伝えます、秩父郡皆野町の高松城
も全山採掘になり、今は山の形すら無くなってしまいました。戦国時代ここ秩父地方は、関東管領山内上杉氏の重
臣である藤田康邦が支配していました。(一部は武田氏)高松城も上杉氏の本城である上野平井城の支城の一つで
した。高松城の城主は逸見若狭守と言い、出身地は甲州八幡(山梨県の八ヶ岳の山麓)で、武田信玄との勢力争い
に破れて秩父に来たと言われています。やがて関東地方は、小田原北条氏が勢力を延ばして来ました。三代目の北
条氏康の頃藤田康邦は、氏康の三男氏邦を養子に迎え小田原北条氏の家臣になりました。秩父地方をだいたい北条
氏の支配に収めましたが、まだ高松城は上杉氏の拠点となっていました。
永録四年(1561年)、北条氏の高松城攻撃が始まります。北条
氏は、高松城と街道を挟んで前方の山にて篝火を焚いたりして、高
松城に立て籠もる上杉勢を威嚇し、高松城に城明け渡しの印判状を
出し、北条氏は高松城を制覇したと言われています。高松城の城主
だった逸見若狭守も北条氏の家臣となり、この高松城で武田軍の乱
入に備え、城主として守りを固める事になります。直、鉢形城の三
の丸に館を有し、その一帯を逸見曲輪と呼ぶようになりました。
 (左図参照)
火燈し峠−北条軍が篝火を焚いた
所。旗塚−高松城の烽火場。
大通院−逸見若狭守の開基。若狭
夫妻と子義久のお墓 あり。

上記でも述べましたが、高松城が破壊される前に発掘調査が行われ
ました。(昭和49年)出土遺物としては、刀子、鎧の小札、刀剣
の柄頭、小皿、土鍋、灯明皿、火鉢、石臼、砥石、釘、開元通宝、
永楽通宝、炭化した米、大豆、栗、梅の種などが出て来たそうです
。私も皆野町の美の山中腹にある、民族博物館で展示されていた物
を幾つか見ました。