第十代崇神天皇の代、四道将軍の一人である武沼河別命が東方十二ヶ国の平定に当たり当地をお通りの際、濃霧のため、道に迷われたが、大山祇命の使いである巨犬が現れ、命を導かれた。命はここに大山祇命を祀られて奉謝する。これが当社の創めであると伝えられている。その後、日本武尊命、当社に詣でて剣を献じ給い、下って坂上田村麻呂社前に樫の苗木を植えて、「吾が心、樫の如く、固く折れず、挫けず、東蝦夷鎮圧を遂げさせ給え」と祈願する。更に下って天文年中、藤田右衛門佐重利、地内に天神山城を築き、当社を城の守護神として奉斎し、寄居鉢形城主北条氏邦もこれにならって当社を崇敬するという。しかし、鉢形落城後は社運衰退、社殿も腐朽したが、これを嘆いた里人の力によって寛政二年社殿が改築され、さらに、明治二十一年修繕を行い、最近では昭和六十一年に改築が再度行われている。これが岩根神社の由来である。oooooo

               祭神
    大山祇命、大口真神(お犬様)、大己貴命(大国主命)、武沼河別命、御嶽大神
         木花開耶姫命(産泰様)、天手力男命、日本武尊命


            
岩根神社と御嶽・大口真神・産泰信仰
御嶽信仰は、境内に普寛霊神・一心霊神などの霊神碑が並び、また、境内内社の祖霊社に霊神牌を奉安し、当社を行場として拝するむきがある。明治18年奉納の「木食心願之記」なる額に記されている大木の下敷きになった老爺が当社祭神の加護により息を吹き返し、その後、この老爺の息子は神徳報恩のために木食修行を始めたという話がある。大口真神信仰は、明治29年奉納の「吉田父子盗難を免るの図」に代表される日本狼の絵馬数枚があり、盗賊除けの信仰である。産泰信仰は子授け、安産祈願所として信仰され、木製、竹製の底抜け柄杓が奉納されており、現在でも県内外から多くの参拝者が訪れている。

 
                       





               古文書と神社・四方神・風水

平成10年に見つかった古文書を解き、翌年の3月29日に測量してみると社務所中心から表鬼門の方向に岩根神社が配置されており、古文書に書かれているとおりであることが解りました。この上は古文書沿って裏鬼門に一尊祀るべく、平成12年3月吉日に大山祇神社を建立致しました。この地は京都流の配置でできていると言い伝えでは聞いていましたが、社務所を囲むように四方神様もあるので正にそのとおりだと思いました。また、古文書には記載されていませんが岩根神社東側に水路があることから、此は大地からエネルギーを得る中国の大都市に見られる風水の配置であることが解りました。風水を使っている日本の代表的な土地としては江戸時代まで天皇が住んでいた京都御所、江戸城などが現存していますが、ここ岩根の地にも風水の配置が取り入れてあることは驚くべきことでした。ここまで解るとこの地は単なる一般的な物の考えかたで手を出してはいけない土地だという結論に達しました。