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山小屋OL殺人事件

−経緯−

昭和58年9月4日東京都武蔵村山市のOL、A子さん(当時22歳)の家族から、娘が前日の3日早朝、山梨県北巨摩郡須玉町の奥秩父山系水牆(みずがき)山に1人で登山に行ったが、帰宅予定の4日夜になっても戻ってこないと警察に捜索願いを届け出た。

連絡を受けた山梨県警韮崎署員が捜索した結果、同月19日になって水牆山の中腹付近にある富士見平小屋から200メートル離れた登山道下の山林で腐乱死体のA子さんを発見した。

韮崎署は他殺と事故の両面から捜査を開始した。早速、現場近くの富士見平小屋の管理人・森田勤(仮名・当時50歳)に事情聴取した。森田は、A子さんは3日午後4時頃に山小屋にきたが、5時頃呼びにきた若い男と一緒に出て行ったままであると答えた。

捜査員は、森田の落ちつかない態度に不審を抱き更に厳しく追及した。その結果、当日に限って宿泊名簿をつけていないことが判明。また山小屋近くでキャンプしていた登山者が、助けを求める女性の悲鳴を聞いていたことや、以前山小屋を利用した女性から管理人に犯されそうになったという情報を得た。

同月23日早朝、警察は森田がA子さんを殺害したとみて任意同行で取り調べを始めた。森田は当初、若い男の存在を主張し続けていたが夕方になってA子さんの殺害を認めた。

森田の自供によると、3日午後9時20分頃、戸外のトイレに行くA子さんを乱暴しようと山林に連れ込んだが激しく抵抗されたためシャツの襟首を強く引いたところ坂道だったため首を吊った状態になり窒息死した。翌日未明にA子さんの遺体を担いで現場から100メートル離れた窪地に遺棄した。リュックや衣類は焼却したということだった。



−4年前の女性行方不明の疑惑−

森田は両親と妻、娘の5人暮し。昭和52年、麓の増富ラジウム温泉観光協会経営の同小屋の管理人となった。宿泊客がいない時は須玉町の自宅に帰るような生活だった。性格は無口でおとなしいが、以前から同小屋で女性に悪戯したとの噂があった。地元では女性登山者に対して富士見平小屋には泊まらないように注意する人もいた。

警察は、今回の事件から4年前の昭和54年7月7日奥秩父の甲武信(こぶし)岳から燕山を目指して登山していたB子さん、C子さん2人の行方不明で、同年8月4日と5日に甲武信岳手前の水晶山山頂付近で発見された白骨化した2人の不審死に関しても森田が深く関係していると見て取り調べを行った。

2人の白骨化した遺体には後頭部と上腕部の骨折が認められた。衣類には鋭利な刃物で切られた傷跡があり、2人の所持金と腕時計は見当たらなかった。埼玉県警は転落死と他殺の両面で捜査したが結局未解決のままだった。

韮崎署は、2人の登山ルートが今回の事件と同じ登山ルートであるため森田の犯行と見て追求したが、森田は犯行を否認。結局確証もなく立件はできなかった。

昭和59年10月、森田はA子さん殺害で婦女暴行致死、遺体遺棄などの罪で懲役13年の判決を受けた。

出典 : 事件史探求

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