妻坂峠
- つまさかとうげ -
(2004年1月〜3月)
妻坂峠は、生川(横瀬町)と名郷(名栗村)を結ぶ峠です。

写真は妻坂峠の頂上部分。いくつかの道標が立っています。

写真の右側の斜面を降りると横瀬町、左の杉林の中を降りていくと名栗村へ到達します。

この、横瀬町と名栗村を結ぶラインが妻坂峠です。

また、写真の奥方面へ進むと大持山へ、手前側に進むと武川岳に登ります。



非常に古い峠だそうで、ここを舞台にした鎌倉時代の逸話も残っています


【妻坂峠の伝説・其の一】
この妻坂峠は、秩父→名栗→鎌倉と続く鎌倉街道の一部でもある。

鎌倉時代の武将・畠山重忠の妻が秩父に住んでいてこの峠を越え、現在の名郷で重忠と落ち合ったという。

そこから妻の坂という地名が付けられた。
横瀬町側の妻坂峠登山口です。

車が入れるのはここまで。

スペース的には、2台程度しか置けないのでご注意を。
登り始めてすぐのところです。

左側の路傍に、小さなお稲荷様があるようです。

ささやかな屋根と、きちんとしたお供え物があります。
このようなつづら折の山道が続きます。

峠の頂上まで、私の足で登り40分前後です。
途中、路肩が決壊した場所があります。

以前は地すべりに気をつけながら通過していたのですが、最近立派な丸太橋ができました。
埼玉県の立てた「ゴミを持ち帰りましょう」などと注意書きのある青い看板が見えてくると、登りは残りわずかです。
妻坂峠の頂上です。

以前はここに茶屋があったそうですが、今は跡形もありません。

名栗から秩父へ向かう生活道として、かつてはそれなりの往来があったのでしょう。

ここから10m四方あたりは、いつも名栗側から風が吹いています。

冬は急激に体温を奪われる危険地帯で、とても長居する気になりません。
峠には、古い地蔵がひとつあります。(左写真・吹き出し位置参照)

重さは100`位あるそうです。

大持山へ行ったり、武川岳に行ったり、名郷に行ったりと、幾度となく通り過ぎる私を、いつも静かに見守っているこのお地蔵さまにも、数々の伝説があるのです。

【妻坂峠の伝説・其の二】
昔、妻坂峠は秩父への近道として多くの人が通った。

しかし道中、山犬や狼がでて、噛み殺される事故が絶えなかった。

山中の一兵衛という人は、ここで噛み殺された人々を供養したいと思い地蔵を作った。

一兵衛屋敷でつくられたこの地蔵を、一兵衛自らが背負いあげたと云われている。
※地蔵の台石より下にお経が刻まれて埋まっていると云われる。

峠の頂を越えて、杉林の植林地帯の中に続く道を下っていきます。

現在も、大持山縦走路に向かう人などが結構通るようで、道はしっかりついています。
杉林をしばらく下ると、右手に沢が現れます。

名栗村へ流れ下る沢です。

この峠のふもとの白岩という集落(今は廃村)にも、妻坂峠にまつわる逸話があります。
【妻坂峠の伝説・其の三】
名栗が秩父郡だった頃、名栗村の白岩という集落に新井亀次郎氏が住んでいた。

ある時、彼が秩父からの帰りに峠を通りかかると、

「亀次郎、気をつけろ」

という声が聞こえた。

そこで山犬や狼に気をつけながら下りると、無事家にたどり着くことができた。

亀次郎はお地蔵様が危険を知らせてくれたものと思い、峠の地蔵に屋根を造った。
※ただし亀次郎の作った屋根は現存しません。

やがて杉林の間に舗装道路が見えてくると、いにしえの峠も終点です。

終点には砂防提があります。

沢を越える小さな橋を渡ると、車道に出ます。
名栗側の妻坂峠登山口の風景です。

車が数台置けるだけのスペースがあります。

飯能や都内から大持山・武川岳に登る人はここから登るようです。

また、この近くにもウノタワへの登山口や鳥首峠登山口などがあり、まだまだ遊び場には事欠きません(^^)

車社会の到来以前は、古くからの生活道路だったこの峠も、今は登山道として人々に親しまれています。

妻坂峠は、奥武蔵の名低山への入り口として、今も重要な峠道です。