宮沢賢治と秩父
宮沢賢治が旅した秩父路を辿る
並びに「宮沢賢治と秩父」の講演会 平成8年9月14日 |
皆野町民だよりより |
フイールド 10時〜11時50分 上長瀞−虎岩(養浩亭東)−梅乃屋−ようばけ−小鹿野 講 演 会 13時〜14時30分 場所 小鹿野町文化会館 講師 守屋勝平先生 |
秩父の環境を考える会
歴史環境部会
上長瀞と桜道
藤谷淵−大宮間(現在の長瀞秩父間)
大正4年10月27日開業により、藤谷淵金崎間は、専ら貨物支線として使用することとなったが、吉田、小鹿野方面の交通に幾分の不便を来たしたので、大正4年8月藤谷淵、親鼻間の中間に、国神駅(現在の上長瀞駅)を設けたのである。同時に貨物支線の一部は廃して桜道になったのである。
(昭和25年12月発行 秩父鉄道五十年 史)
虎岩
見学する虎岩(虎石)は、長瀞自然史博物館の東に下った河岸にある。
つくづくと「粋なもやうの博多帯」 荒川ぎしの片岩のいろ |
この「ハンカチを操んだ様に烈しく押し曲げられた」片岩の層が、「つくづくと粋な模様の博多帯」と詠まれたのであろう。実際に眺めてみると、遠目には虎のしま模様の如くであるが、近くで見ると幾千枚もの片岩の層から成り立つ岩塊で賢治が「つくづくと」と感動したのもうなづけるのである。(企画展示 埼玉秩父と賢治 埼玉大学教授 斉藤 昌好)
梅乃屋旅館
明治44年9月14日、波久礼金崎間の開通にあわせて、当主設楽茂三郎氏が、長女ハマ18歳(満17歳 明治27年4月2日生れ、昭和54年83歳で逝去)の年に開業し今日に至る。
当時は、一階に帳場があり中央に巾広い階段があった。二階は桧の一枚板戸で六部屋に仕切られていた。板戸をはずせば、二階全体が一部屋にも、又、複数の部屋にもなった。常に、女中を3.4人置き25から30人を宿泊させていたという。
梅乃屋旅館の人々(明治45年5月) |
神保博士1911年明治44年「秩父甘楽における五日間地質見学の要目」によれば、角屋それ以降(梅乃屋開業)のものには、梅屋(梅乃屋)が出てくる。
関教授は、前年度の旅行でも国神に泊まったのである。 大正5年2月7日小林健吉が詠んだ歌。 対岸の親鼻橋の灯のあかし 荒川の流れは白くして (国神の宿にて) 午後4時に親鼻橋を吾立てば 蛇紋岩の岸青く立つ見ゆ |
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紅簾片岩(皆野町親鼻橋際) 現在、唯一の紅簾片岩の露頭として全国的に著名 |
後に、梅乃屋の当主設楽茂三郎氏が「秩父宮号宣賜記念岩石陳列所設置御届」(大正11年)記されているのを見ると、宅地9坪を岩石陳列所に提供している。
又、同所維持員の一人でもあった宮前治三郎氏が、国神化石標本の棚を作ったのを梅乃屋が引き取り、岩石標本と合わせて岩石陳列所となったと思われる。神保博士(関教授と共に引率者)が所員となっている。とすれば、神保博士の指定する旅館が適わしい。
秩父岩石化石陳列所見取図 |
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梅乃屋旅館母屋の東側に大正11年9月に建てられた、秩父岩石化石陳列所の見取図 |
理学博士 神保小虎 |
梅乃屋は、国神駅前にあって交通上まことに便利な上小鹿野方面からの馬車の中継点に当たっていた。それで、梅乃屋の方がより適切と判断される。
一行は、梅乃屋で一泊し、そこから早朝霧の中を馬車3台を列ねて出発した。
霧晴れぬ、分かれて乗れる、三打台の、ガタ馬車は行く、山岨の道
ようばけ |
さはやかに半月かゝる薄明の 秩父の狭のかへりみちかな |
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土地の人は「よう」を「夕」、「ばけ」を「はけ」(断層面)と捉えている。夕陽に照らされる「はけ」の意味らしい。 |
寿旅館 | ||
寿屋(小鹿野) |
当時、もう一軒神保博士によって紹介されているが、今の所、最も有力な旅館。 |
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