新井雅夫副会長の大変なお骨折りで、「秩父地方の老樹・名木」の本が出来上がりました。その本に出てくる一本杉峠の杉」は、小鹿野町の守屋はな子さんの投稿によってNHKテレビ「小さな旅」でも紹介され、有名になった木です。この木に対する守屋さんの深い思いをうかがうことができましたので、本紙でもご紹介します。

 小鹿野町腰之根から下吉田橋倉へ通じる峠道に、樹齢500年といわれるみごとなー本杉がある。広葉樹の中にあって、小鹿野町のどこからもはっきりと望むことができたので、小鹿野の人たちは、古くからこの峠を一本杉峠と呼んで親しんできた。

 この町に生まれ育つた守屋はな子さん(大正11年生まれ)にとっても、一本杉は、思い出に満ちたたいせつな木だ。炭焼きのために、この峠の奥の小屋まで毎日通う両親の後について、幼い頃からこの杉を見上げて育った。 朝、一本杉の前に山ると、みんなで手を合わせその日の無事を祈り、帰りは背荷物を下ろし加護を感謝した。毎日の出来事を報告し、願いごとがあればみな杉にお願いしてきた。ー家にとって一心杉は守り神であり、心のよりどころでもあった。

 21歳の時、はな子さんは結婚し、初めてふるさと小鹿野を離れ満洲へ渡る。だが戦況の悪化で、一年もたたないうちに軍人のご主人を残し、独り小鹿野に帰ることになった。撃沈におびえながら救命胴衣をつけて船で海を渡り、混んだ汽車をいくつも乗り継いで、ようやく小鹿野にたどり着く。そんなはな子さんの目に飛び込んできたのは、あのなつかしい峠のー本杉だった。

 「一本杉も、峠の景色も、昔とちっとも変わっていませんでした。それが、なによりもうれしかった。根の張りなども力強くて立派で、生命力があふれてました。戦争で荒れた景色ばかり見てきたので、そんな杉にどれだけ勇気づけられたことか。杉に助けてもらいました」それからは、一本杉にご主人の無事を祈願するのが、日課になった。炭の牛産地だった小鹿野は、戦争中も炭を供出し続けたが、戦争の激化とともに供出量も激増した。そのため、木という小は切られ、山は次々と丸はだかになっていった。だが、そうした非常時でも、あのー心杉は残されたのだ。「小鹿野の心のふるさとの、あの杉だけは残したい」それは、小鹿野の人々に共通する思いだった。

 戦争が終わって1年後、はな子さんのご主人も無事に帰還を果たす。夫妻がそろって、杉に感謝の報告をしたのはいうまでもない。その後夫妻は、仕事の都合で小鹿野町を離れるが、平成4年、50年ぶりに小鹿野に帰る。人生の最後はふるさと小鹿野で、という思いが強まったからだ。足か弱くなったはな子さんは、独りで小本杉まで行くことはできなくなったが、一本杉に見守られた静かな暮らしに、心安らぐ。

 平成7年、NHKテレビ「小さな旅」が、忘れられない風景をテーマに手紙を募集した。はな子さんは一本杉への思いをつづり応募したところ、2000通から選ばれ、翌8年3月に番組で紹介された。放映の日守屋家の電話は深夜まで鳴り続けた。今も堂々とそびえる一本杉を久々に見た全国各地の小鹿野出身者たちの、杉をなつかしむ」電話だった。

「一本杉は私たちにとって、心の神さま。心のふるさとです。でも若い人たちは、あの杉のことをどれだけ知っているでしょうか。今いちばん心配なのは、杉の行く末です」小鹿野の人みんながこの杉を忘れずに、しれからも長く大切にしてほしい。はな子さんは心からそれを願っている。

 

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