救いのイロハ
 礼拝勧話 イロハシリーズ32  救いのイロハ     悳 昭彦  2005年 11月 27日
目次
1.はじめに
2.救いとは
   何からの救いか(求道の動機)
   仏陀の例
   根本原因(聖書の答え)
   罪の本質 
   罪と死の起源
   仏教の罪
   聖書の人間観
   仏教の人間観
   何からの救いでなければならないか
3.求道の勧め
   仏教の例 浄土真宗経典 蓮如上人の手紙 <白骨の章>から
   キリスト教の例 聖書から
4.救いの方法
   救われるには何を為すべきか 
    悔い改めと信仰
     大前提 神の存在についての信仰
     悔い改めとは(挿入聖句付)
     悔い改めと信仰の関係
   福音
   贖いと和解
5.信仰
   何を信じるのか
   救い主イエス・キリスト
   信仰告白
   信仰は恵み、賜物
6 仏教の救い
   悟りとは何か
   親鸞の絶対他力信仰
7.救いの結果
   罪の赦し
   信仰義認
   死の問題の解決
   新生
   神との和解
   神の子とされる
   永遠のいのち
   天国に行ける
8.引用資料及び参考資料
 1)ハロルド・リンゼル、チャールズ・ウッドブリッジ共著 山口 昇 訳 
           聖書教理ハンドブック いのちのことば社発行 (1962)
 2)ジョン・マーレー 著 松田 一男、宇田 進 訳 キリスト教救済の論理 
 小 峯書店 発行(1972)
 3)森山 諭 著 神道と仏教とをただす 
  <日本人の宗教意識とキリスト教 ―  上巻 > 
  荻窪栄光教会出版部 発行 (1981)
 4)渡辺 暢男(のぶお)著 どこがどう違うキリスト教と仏教 
  ニューライフ出版社 発行(1985)
 5)渡辺 暢男(のぶお)著 新約聖書と歎異抄 
     本当の救いはどこにあるのか   PHP研究所 発行 (1991)
 6)浄土真宗聖典普及会編 解説 礼拝聖典  百華苑発行 (1977)
 7)改訂新版「世界の宗教と経典」総解説 自由国民社発行 (1989)
 9) 山本 杉広 著 人生の指針シリーズ@ お経と聖書の成り立ち
   オリーブ社 発行 (1991)
 10)山本 杉広 著 人生の指針シリーズA お経と聖書が教える 人間
  オリーブ社 発行 (1991)
 11)山本 杉広 著 人生の指針シリーズB お経と聖書が教える 救い
  オリーブ社 発行 (1991)
 12)山本 杉広 著 人生の指針シリーズC お経と聖書が教える 死後
  オリーブ社 発行 (1991)
 13)新聖書辞典 いのちのことば社 発行 (1985)
 14)渡辺照宏 著 仏教  岩波新書  岩波書店発行 (1956)
 15)日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用
 16)今泉淑夫 編 事典 日本の名僧 吉川弘文館 発行(2005)

                      本文
1.はじめに
  聖書が提供する救いについて、日本の仏教と比較しながら問答形式で話を進めます。
  質問者は求道者、回答者は聖書的なあるバプテスト教会の某信徒を想定しています。
2.救いとは
   何からの救いか(求道の動機)
   問1 よく救いと言われますが、何からの救いを指していますか?
   答  
   仏陀の例
 仏陀(釈迦、釈尊)は紀元前五世紀頃、北部インド、今日のネパールのターライ盆地にあった一小都城国カピラ城に父淨飯王の子として生まれた。仏陀は一六歳で結婚し、一子を設けた。仏陀は恵まれた家庭生活を送りながらも、若き日の釈尊は、生老病死等の人生の実存(現実に存在すること)にかかわる苦しみや人生目的の発見に悩み、二九歳でついに妻子、父母を捨て、城を出て修業の生活に入る。7)
 仏陀に限らず、私たち人間誰しも「生老病死」の苦しみがあり、人の一生が死で終わるという虚しさや人生の目的発見の問題から逃れられません。

   根本原因
 聖書によれば、「生老病死」の苦しみやこの虚しさの根本原因は、罪と死であるということです。
何からの救いかの答は、罪と死からの救いであります。
 へブル2:14ー15 p391
2:14 「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」

   罪の本質 
問2 聖書で言う罪とは、何ですか?
答  聖書で言う罪とは、神に対する罪(対神的罪)です。この中には隣人に対する罪も含まれます。
   また、罪は神の律法違反です。
   マルコ12:29ー31(p85)
12:29 「イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」」

   罪と死の起源
 人類の先祖であるアダムの違反の結果、人類は罪と死に支配されるようになりました。
(原罪)
死は肉体の死と霊的死の両方を含みます。
 ローマ5:12(p272)
5:12 「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。」
 エペソ2:1(p342)
2:1 「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、」
   仏教の罪
問3 仏教で言う罪は、聖書で言う罪とは違うのですか?
答  仏教で言う罪は、聖書で言う罪とは違います。仏教は元々無神論ですから、聖書で言うような、神に対する罪と言う概念はありません。
   5)渡辺 暢男(のぶお)著 新約聖書と歎異抄 
  本当の救いはどこにあるのか    PHP研究所発行 (1991)p76から
「仏教は、キリスト教の罪に対して、無明という概念をもって対します。これは、人々の心を覆いゆがめるという意味で、迷妄と言い換えてもよいでしょう。それは正しい知慧のない状態をいい、迷いの根本である無知を指します。釈迦が教えたと伝えられる「十二因縁説」の最初に出てくるのが、この無明です。つまり、無明は人が生きたいと願う執着を生み出す心ととらえることができるでしょう。」

   聖書の人間観
問4 聖書は人間についてどう語っているのでしょうか?
答  聖書は人間が神の被造物であり、神は人を神のかたちに創造し、男と女とに創造された。と明言しています。
   創世記1:27 「1:27 神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」
 これは、人間がほかの動物とは本質的に違った霊的存在であり、神の言葉を聞き分けうる者として造られたことを意味します。 また、聖書は、人間は生まれながらの罪人であるとしています。(性悪説)
   仏教の人間観
問5 仏教では人間をどのように捉えていますか?
答  仏教では、創造主であられる神の存在を認めないわけですから、当然人間とほかの動物との本質的な区別は無い筈です。しかし、すくなくとも人間は、仏法を解することができる理性的存在者であるということです。
勿論、神の前に罪人であるという発想はあり得ません。仏教ではどちらかというと性善説に立っています。
 仏教の人間理解は引用資料4)渡辺 暢男(のぶお)著 
どこがどう違うキリスト教と仏教 ニューライフ出版社発行(1985)pp54ー55によれば、
「ただ、仏教では、人間を中心とする日常生活の範囲、われわれの心身の環境を五蘊という名で代表することはあります。つまり、人間の心身環境を形作っている五つの要素が五蘊なのです。蘊とは「積もり集まる」の意です。この五種とは、色、受、想、行、識の五つで、色とは形体あるもの、すなわち肉体をいい、受とは感覚であり、想とは表象(心に描く像)、行とは意志、そして識とは認識です。釈尊の立場からすれば、この五者がいずれも苦であるのはいうまでもありません。」(仏教の人間構成の代表的理論)
   何からの救いでなければならないか
問6 では、本当に、何からの救いでなければならないのでしょうか?
答  本当の問題は、死と死後の神によるさばきと地獄(第二の死)の問題です。
  何からの救いでなければならないかの答は、この罪と死からの救いであります。
へブル9:27(p399)「9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
黙示21:8(p459) 21:8 「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」

 人々は、この罪と罪の結果である死と死後のさばきの深刻さに、無関心であります。

3.求道の勧め
   仏教の例 
問7 自分の救いの必要性については、そう差し迫った問題のようには思われないのです 
   が?
答  先ず、仏教の例を聴いてください。
   6)浄土真宗聖典普及会編 解説 礼拝聖典
               百華苑発行 (1977)pp123ー126
      浄土真宗経典 蓮如上人の手紙 <白骨の章>から 
       (以下( )内は対応する原文の一部です。)
「白骨の章
そもそも、人間の生命のもろく定めない有様をじっくりと考えてみると、(夫、人間の浮生なる相を・つらつら観ずるに、)
およそはかないものは、この世における全人生、夢まぼろしのような一生である。そうゆうわけで、私はいまだかつて、一万歳の寿命を得たという話を聞かず、まことに一生というものは過ぎやすい。この世で一体だれが百歳の身体を保つことができようか。自分が先になるか他人が先になるか、その寿命の尽きるのは今日かも知れず明日かも知れない。昔の人も、「木の葉の末に宿る露が風に散るように先立つ人もあり、元に置くしずくがややあって消え去るように、ひとよりも後れて寿命の尽きる人もあるが、いずれにしても日々に命終える人の数ははかり知れない。」と言っている。したがって、朝に頬に紅の色つやあろうとも、夕べ白骨となるわが身である。(されば、朝には紅顔あって・夕べには白骨となれる身なれ、すでに無常の風きたりぬれば・)今まさに無常の風が吹けば、たちどころに両の目は閉じ、ただ一つの呼吸はとだえてしまう、そうなれば、頬の血の気は引いて色青ざめ、桃や李のような美しい容色も失せてしまう。その時、父母兄弟夫婦子孫など縁者が集まって嘆き悲しんでも、全くその甲斐のあろうはずがない。そのままにして置けないないので、野辺の送りをし、夜中に火葬に付して一筋の煙としてしまえば、もうあとには白骨が残っているだけであって、「あわれ」という言葉では言い尽くせない深い悲嘆にくれるばかりである。さて、そのような次第で、人生のはかないことは老若の区別もないことであるから、人はだれでも、早く来世の浄土往生という人生の一大事に思いを寄せて(はやく後生の一大事を心にかけて)、阿弥陀如来を信じ頼み申して、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えるべきである。  (謹んで)(あなかしこ あなかしこ)

朝に紅顔・・・・夕べに白骨・・・・・(無常)
「無常」とは、ありとあらゆるものが移り変わって少しも止まることがないという仏教の根本真理を表わす言葉である。
よく考えてみれば、われらは日常あらゆる機会にこの道理を体験しているはずであるが、その中でも<死>は、人の世の無常ではかないことを最も痛切に思い知らすものであり、それ故に、人が仏法に耳を傾けるようになるきっかけとなることが多い。この無常の道理を「真実」と把えるべきことを、釈尊は教えられた。仏教はもともと「無常感」を説かず、「無常観」を説く教えである。向上の人生は無常の道理を体得することから始まる。それによって、今の寸時を惜しむことの大切さ、急いで仏法を求めねばならぬことに気づかれよう。
 蓮如上人のいましめに、「仏法には明日といふことあるまじく候。仏法のことはいそげいそげ・・・・・・。」
「若きとき、仏法はたしなめ。」という言葉がある。

早く後生の一大事を心にかけて
信心の定まった人は、現世で正定聚の位にはいるのだと、親鸞聖人はいわれた。正定聚とは、<必ず仏になることに決定した人たちの仲間>という意味である。蓮如上人が御文章にいわれる「後生の一大事」とは、<人がこの世を終え、浄土に生まれて仏のさとりを開く>ということが、人生の最大の課題だというのである。 親鸞聖人も、蓮如上人も、そのように成仏の決定する位をこの世に生きているうちに得ること(現世正定聚)を何よりも重視された。
 「白骨の章」が深い嘆きの心で述べているように、死は、いつ、いかなるときに人の身を襲うかわからない。してみれば、人は一刻も早く信心の人となって、阿弥陀如来の恵みに生かされる正定聚の身となることが肝心である。」

   キリスト教の例 
聖書から
詩編90:1ー17(p915)
「90:3 あなたは人をちりに帰らせて言われます。「人の子らよ、帰れ。」
90:4 まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。
90:5 あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。
90:6 朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。
90:7 まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。
90:8 あなたは私たちの不義を御前に、私たちの秘めごとを御顔の光の中に置かれます。
90:9 まことに、私たちのすべての日はあなたの激しい怒りの中に沈み行き、私たちは自分の齢をひと息のように終わらせます。
90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。
90:11 だれが御怒りの力を知っているでしょう。だれがあなたの激しい怒りを知っているでしょう。その恐れにふさわしく。
90:12 それゆえ、私たちに自分の日を正しく数えることを教えてください。そうして私たちに知恵の心を得させてください。」
(前述の蓮如上人の手紙 <白骨の章>が連想されます。)

第1ペテロ1:24ー25(p416)
「1:24 「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。草はしおれ、花は散る。
1:25 しかし、主のことばは、とこしえに変わることがない。」とあるからです。あなたがたに宣べ伝えられた福音のことばがこれです。」

伝道11:9ー10(p1022)
「11:9 若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。
11:10 だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。」
伝道12:1(p1022)
「12:1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」
( 前述の、蓮如上人のいましめ「若きとき、仏法はたしなめ。」という言葉が連想されます。)
伝道12:13ー14(p1023)
「12:13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
12:14 神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ。」

箴言14:2(p986)
「14:12 人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である。」

ルカ13:1ー4(p130)
「13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。
13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。
13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

マルコ8:36、37
「8:36 人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
8:37 自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。」

第2コリント6:2(p321)
「6:2 神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」
(前述の 蓮如上人のいましめ「仏法には明日といふことあるまじく候。仏法のことはいそげいそげ・・・・・・。」
という言葉を連想されます。)

4.救いの方法
   救われるには何を為すべきか
    悔い改めと信仰
問8 救われるためには何を為すべきでしょうか?
答  救われるためには、神のみ前に、自分の罪を悔い改め、福音を信じること、すなわち、神が備えられたイエス・キリストによる十字架の救いのみ業を信じることです。
マルコ1:14−15(p59) 1:14 ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
使徒16:30−33(p240) 「16:30 そして、ふたりを外に連れ出して「先生がた。救われるためには、何をしなければなりませんか。」と言った。
16:31 ふたりは、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と言った。」
使徒2:36−38(p211) 「2:36 ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
2:37 人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」
使徒17:30(p242) 「17:30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。」

     大前提 神の存在についての信仰
問9 救われるためには神の存在を信じなければなりませんか?
答  救われるための大前提は、神に対する信仰です。
   神に対する信仰には、神の実在を信じることと、神が私たちを顧みてくださるという信仰を含んでいます。
へブル11:6(p402) 11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
 救いを理解するための用語に、罪、裁き、罰、地獄、救い主、贖い、新生、神の子、赦し、永遠のいのち、天国等がありますが、これらにはすべて神が関係しています。従って、救いを理解するには、神についての知識と信仰が必要なのです。
創世記1:1 「1:1 初めに、神が天と地を創造した。」
ローマ1:19−20(p266)「 1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
使徒14:15−17「 14:15 言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。
14:16 過ぎ去った時代には、神はあらゆる国の人々がそれぞれ自分の道を歩むことを許しておられました。
14:17 とはいえ、ご自身のことをあかししないでおられたのではありません。すなわち、恵みをもって、天から雨を降らせ、実りの季節を与え、食物と喜びとで、あなたがたの心を満たしてくださったのです。」

 聖書では、これら悔い改めと信仰は、基礎的なこととされています。
へブル6:1−2(p394)「6:1 ですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行ないからの回心、神に対する信仰、
6:2 きよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。」

     悔い改めとは、(挿入聖句付)
問10 悔い改めとは何ですか?
答 悔い改めとは 13)新聖書辞典 いのちのことば社発行 (1985)によれば、以下の通りです。
(以下、引用聖句の一部について、15)日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用して、聖句そのものを挿入しました。)
「1.旧約聖書において.悔改めの要素を含むものとしては「立ち返る」という語が多く用いられており(申30:2,イザ30:15,エレ35:15,ホセ6:1,14:1,ヨエ2:12等),罪や神への不服従の状態から神に立ち返ることを表している.その中には,個人的な例もあるが,多くは集団的,民族的な行動,行為についてのものである.
聖句
「ホセ14:1  14:1 イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。あなたの不義がつまずきのもとであったからだ。」
2.新約聖書において.ギリシヤ語の「悔改め」の原語は,ほとんど〈ギ〉メタノイア(または動詞〈ギ〉メタノエオー)であり,文字通りには心の転換を意味する.・・・・・(中略)・・・・・・
新約聖書において,悔改めは,(1)個人個人の具体的経験として明示されている.それは単なる後悔や打算的なものであってはならず(参照使8:9‐23,ヘブ12:16‐17),
深い罪の認識,生活の改変を伴う根本的,徹底的な転換であった(ガラ1:23‐24,Tテモ1:13‐15.参照マタ3:8,ルカ19:8,使19:18‐19,26:20,Tテサ1:9).
聖句
Tテモ1:13‐15 「 1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
1:14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」
(2)悔改めをするのはその人自身であるが,そのために神御自身が恵み深く働いておられる.悔改めは神からの賜物であり(使5:31,11:18),
聖句
使11:18  11:18 人々はこれを聞いて沈黙し、「それでは、神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。」と言って、神をほめたたえた。),
聖霊が罪を認めさせるという悔改めに至る働きをされる(ヨハ16:8‐9).
聖句
「ヨハ16:8‐9  16:8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」
御子イエスの十字架の事実を,真心から人が仰ぎ見る時に,悔改めに至るのである(使2:36‐37,3:18‐20).
神の慈愛,忍耐が人々を悔改めに導くと使徒たちも指摘している(ロマ2:4,Uペテ3:9).
聖句
「ロマ2:4  2:4 それとも、神の慈愛があなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじているのですか。」
(3)初代教会において悔改めは,救いの経験のための中心的な使信であった.使徒パウロが,あらゆる機会にあらゆる場所で説いたことは,「ユダヤ人にもギリシヤ人にも神に対する悔い改めと,私たちの主イエスに対する信仰」であった.(使20:21.参照使26:20)
聖句
「使20:21  20:21 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」
前掲の多くの悔改めに関する引照は,このことが彼らのメッセージそのものであったことを示している.
3.悔改めとは.
(1)悔改めは,単なる思念の領域の問題ではなく,全人格にかかわる根本的な転換である.聖書的な,福音的な悔改めとは,みことばと御霊の働きによって罪人の心に与えられる強い光と促しに対して全身全霊をもって応答することである.具体的に言えば,神の与えられる光と,罪の解決のためになされた主の十字架の贖いのみわざを通して自らの罪深さを知り,悲しみ,救いの道を開かれた神の愛と恵みを深く覚えて,救い主のみに信頼し,罪を離れて神に立ち返るための決定的な告白の行動をとることである.それゆえこのような真実な悔改めには,それにふさわしい行動や実が伴うことも,上記に引照した聖句から明らかである.後悔の念,決心,告白(ざんげ)は,悔改めそのものではない.
(2)悔改めにおける神的要素と人的要素は,聖書的に,かつ正しい調和をもって受け止めなければならない.悔改めは人間の行為であるから,神の助けを受けずに罪人自身の力によってなし遂げられると考えることは神をないがしろにすることになり,また逆に神の働き,力によってのみ人間は悔い改めることができるという面を不健全に強調することは,砕かれたたましい,求めるたましいを時として失望や混乱に陥れたり受身にすることになり,両極端共に非聖書的である.悔改めは,人間の行為であるが,それを可能にする愛の神の働きと聖霊の認罪への強い促しが必ずあるのである.
(3)救いに至らせる信仰と悔改めは,不可分の関係にある.使徒たちの福音宣教の中心には悔改めがおかれ,悔改めによる救いが強調されているが,それは信仰による義認と矛盾するものではない.真実な悔改めこそが,純粋な信仰に連なるもので,悔改めを伴わない信仰は,真の救いに導く信仰とは言えない.また贖いのみわざに対する信仰のない悔改めは,どんなものであっても人を救いに至らせることはない.救いは真実に信仰のみによるが,信仰は悔改めから発するし,悔改めを伴うものである.主イエスは「悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1:15)と宣言し,パウロも「神に対する悔い改めと,私たちの主イエスに対する信仰」(使20:21)を強調している.(竿代信和)」
聖句
「使20:21  20:21 ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰とをはっきりと主張したのです。」

     悔い改めと信仰の関係
問11 悔い改めと信仰とどちらが先ですか、また、互いに何か関係がありますか?
答   悔い改めと信仰とでどちらかが先であるとか言うことはできません。悔い改めと信仰とは密接に関連していて、互いに切り離して考えることはできません。
2)ジョン・マーレー 著 松田 一男、宇田 進 訳 キリスト教救済の論理 小峯書店発行(1972)pp103−104 によれば、以下の通りです。
「信仰と悔い改めが相互に依存しあっていることは、信仰が罪から救われるためにキリストを信じる信仰であることを覚えるならば、容易に理解できよう。しかし、もし信仰が罪からの救いに向けられているならば、そこには罪に対する憎悪と、罪から救われたいという強い熱望とがなければならない。このような罪に対する憎悪は、本質的に罪から神に立ち帰る悔い改めを内蔵している。また、悔い改めが、罪から神に立ち帰ることであるということを認める時、この神に立ち帰るということは、当然キリストにおいて啓示された神のあわれみに対する信仰を含まねばならない。かくのごとく、信仰と悔い改めとを切り離すことはできない。救いの信仰の中には、悔い改めが深くしみとおっており、悔い改めの中には、信仰が深くしみとおっていると言わねばならない。」
 更に、先に引用した13)新聖書辞典 いのちのことば社発行 (1985)の3項(3)もご参照ください。

   福音
問12 福音とは何ですか?
答   福音とは、13)新聖書辞典 いのちのことば社発行 (1985)によれば、以下の通りです。
■「ふくいん 福音 〈ギ〉ユーアンゲリオン.
(中略)・・・・
福音は,神がイエス・キリストによってイスラエルへの御自身の約束を成就される良い知らせであり,すべての人に救いの道が開かれたことを伝えるものである.・・・・・(中略)・・・・・福音とは「良い知らせ」という意味であるが,それは神からの賜物である.それは罪の赦しと,イエス・キリストを通して買い戻されて神の子としての身分にあずかる救いである.すなわち罪の赦しと神との和解の知らせである.この意味で新約聖書に75回以上この語が使われている.
・・・・・(中略)・・・・・
福音には救いに関するすべての使信と教理が含まれている.それは罪の赦し,信仰,義認,新生,聖化に導くものであり,啓示と体験の事実に関するものである.・・・・・(中略)・・・・・(中村敬宇)」

聖句
「第一コリント15:3−4(p310) 15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、」

   贖いと和解
問13 福音と関係の深い用語にはどのようなものがありますか?
答   福音と直接関係する用語は贖いと和解です。13)新聖書辞典 いのちのことば社発行 (1985)によれば贖いと和解について以下のように記されています。
■「あがない 贖い 〈ギ〉アポリュトゥローシス.贖いということばの聖書的概念は,ただ単に救出するという一般的な概念ではなく,買い取る,あるいは,身の代金を払って身受けするという概念である.・・・・・(中略)・・・・
 聖書では,キリストによってなされた贖いを,特に次の2つの面から見ている.
1.律法からの贖い.・・・・・(中略)・・・・それは,
(1)律法ののろいからの贖いである.
「キリストは,私たちのためにのろわれたものとなって,私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラ3:13).
律法ののろいとは,律法違反の罪に対する律法による刑罰的制裁のことである.「罪から来る報酬は死です」(ロマ6:23).
この贖いのために支払われた身の代金は,キリストが私たちの身代りにのろわれたものとなられ,十字架において永遠の死の刑罰を受けられたことである.
(2)儀式律法の束縛からの贖いである.
・・・・(中略)・・・・
「信仰が現われた以上,私たちはもはや養育係の下にはいません.あなたがたはみな,キリスト・イエスに対する信仰によって,神の子どもです」(ガラ3:25‐26).
(3)行いの律法からの贖いである.
すなわち,神の御前で義と認められ,神に受け入れられるための条件としての律法遵守の要求からの解放である.「人は律法の行ないによっては義と認められず,ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(ガラ2:16).この贖いのためにキリストが支払われた身の代金は,律法の完全遵守による完全な従順である.「ひとりの人(アダム)の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に,ひとり(キリスト)の従順によって多くの人が義人とされるのです」(ロマ5:19).・・・・(略)・・・・
2.罪からの贖い.
 聖書はまた,キリストによる贖いを罪と直接関係づけて語っている.この場合,罪の持つ2つの面から考慮されなければならない.  
 (1)罪責からの贖い.
 これは,義認また罪の赦しをもたらす贖いである.「ただ,神の恵みにより,キリスト・イエスによる贖いのゆえに,価なしに義と認められるのです」(ロマ3:24).この贖いのための身の代金は,キリストの血である.「私たちは,この御子のうちにあって,御子の血による贖い,すなわち罪の赦しを受けているのです」(エペ1:7).
 (2)罪の力からの贖い.
 キリストが信じる者のために死なれただけでなく,信じる者もキリストにあって,罪に対して死に,神に生きるために,キリストにあってよみがえらされたと教えている(ロマ6:1‐11).・・・・(略)・・・・(松田一男)」

また、和解については、13)新聖書辞典 いのちのことば社発行 (1985)によれば
■「わかい 和解 和解は,・・・・(略)・・・・特に救いに関して,神と人間との敵対関係の完全な回復を指し,義認,贖いと密接な関係を持つ用語である.
・・・・(略)・・・・
旧約時代には,いけにえの動物の血による贖いの儀式が行われたが(出12:12‐13,レビ16:11‐14),新約においては,神と人との仲保者なるキリストがいけにえの小羊としてささげられたことにより,この和解の契約は完全に成就した.すなわち,御子の死を通し(ロマ5:10,コロ1:22),十字架により(エペ2:16),キリストの流された血によって(エペ2:13,コロ1:20),人間を神と和解させてくださったのである.
・・・・略)・・・・」
聖句
コロ1:19−21 「 1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、
1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」

5.信仰
   何を信じるのか
問14 救われるために信ずべきものには何がありますか?
答   救われるためには先にお話した福音と救い主イエス・キリストを信じればそれで十分です。

   救い主イエス・キリスト
問15 救われる為には、イエス・キリストについて何を信じたらいいのですか?
答   救われる為には、ナザレのイエスと言われているお方が、普通の罪を持った人間ではなく、実は、旧約聖書で預言されているメシヤ(=神の子キリスト)であられること、また、自分の個人的な救い主であることを信じなければなりません。
ヨハネ20:30−31(p205) 「20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」

救い主
13)新聖書辞典 いのちのことば社発行 (1985)によれば、以下の通りです。
■「すくいぬし 救い主 〈ヘ〉モーシーア,〈ギ〉ソーテール.・・・・(略)・・・・特に聖書ではイエス・キリストに与えられた称号である(ヨハ4:42,エペ5:23).
・・・・(略)・・・・
ソーテールは,・・・・(略)・・・・しかし,新約聖書においては,この語は単なる人間に対しては決して用いられていない.ただ父なる神と,子なる神イエス・キリストに対してのみ用いられている.・・・(略)・・・・
イエス・キリストは,「世の救い主」(ヨハ4:42,Tヨハ4:14)と呼ばれ,御子のもたらした救いは一種族や一民族に限定されない全人類にかかわるものであることを示す.・・・・(略)・・・・」

   信仰告白
問15 神のみ前に、自分の罪を悔い改め、福音を信じ、すなわち、神が備えられたイエス・キリストによる十字架の救いのみ業を信じ、そして、イエスというお方が神の子キリストであり、自分の救い主であると信じたらこの段階で、救いにあずかれますか?
答  神のみ前に、自分の罪を悔い改め、福音を信じ、すなわち、神が備えられたイエス・キリストによる十字架の救いのみ業を信じ、そして、イエスというお方が神の子キリストであり、自分の救い主であると心の中で信じても、この段階でとどまっていては不十分です。もう一歩踏み出す必要があります。救われるために、最後に為すべきことは、救い主イエス・キリストに対するご自分の信仰を公に告白しなければなりません。
ご自分の信仰を人前で、言うと言わないとでは、雲泥の差があります。これは要注意です。
ローマ10:9−10(p280) 「10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」

この信仰告白には、イエス・キリストに対する信仰と神に対する信仰が含まれています。特にキリストの復活についての信仰がはっきり述べられています。
   信仰は恵み、賜物
問17 信じることは自分の力だけで出来ることですか?
答   信じることは自分の力だけでできることではありません。自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
エペソ2:5 「2:5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――」
エペソ2:8−9(p342) 「2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」
6 仏教の救い
   仏教に救いはあるか
問18 仏教にも救いはありますか?
答   仏教の救いについては、5)渡辺 暢男(のぶお)著 新約聖書と歎異抄 
   本当の救いはどこにあるのか PHP研究所発行 (1991)第6章
(pp167−213)に詳しく記されていますが、その中から抜粋してご紹介します。
「 仏教に救いなし?
 私が西南学院大学神学科の学生であった一九五五年頃のことですが、駒沢大学時代の恩師増永禮鳳博士が、われわれのキリスト教神学校に仏教学を講じに来られたことがありました。・・・・
 ある日の授業中のこと、博士の雄弁な講義が終わり、例によって、質疑応答のときがもたれました。三〇人ほどいた学生の中からK神学生が真っ先に手を挙げ、「先生、仏教には救いはあるんですか」と質問しました。その瞬間、博士は真面目な態度で、「仏教に救いなし、されど悟りの体験あり」と答えられたのです。・・・・・・
 「仏教に救いなし」。これはキリスト教的観点から「救いはあるか」と問うた神学生に対して、聖書でいう罪の救いはないと申されたのでしょう。そして、仏教にはキリスト教の救いに相当するものとして、悟りがあるといわれたのです。まことに、要を得た名答であったと思います。・・・・・」
   悟りとは何か
問19 仏教の悟りとは何ですか?
答   5)渡辺 暢男(のぶお)著 新約聖書と歎異抄 p170 によると、「目が覚めたたように、これまで未知であったことをはっきり覚り知ること」です。仏教全体の立場から言えば、「迷いを去って真理を知ること」であり、釈尊は「われわれ人間の生存を規定し、人間の生活の一切を含む物質的、精神的な要素(五蘊)はすべて永続しないものであり、移り変わるものであるから苦である」という悟りに到達したのです。・・・・・・・」
5)渡辺 暢男(のぶお)著 新約聖書と歎異抄 p175−177 によると、
 「禅の悟り ・・・・・・・・・・・
 「禅宗は菩提達磨を始祖とし、座禅によって仏道を極めようとする宗派で、曹洞、臨済、黄檗の三宗派に分かれています。・・・・・禅の悟りは真の自己を悟ること、自分の本質を悟ることなのです。」

   親鸞の絶対他力信仰
問20 仏教には、釈迦によって説かれた自力による救いと浄土真宗のような他力信仰による救いがあるようですが、浄土真宗の救いなどは、キリスト教の救いに似ているように思われるのですが。
答  再び、5)渡辺 暢男(のぶお)著 新約聖書と歎異抄 を引用します。
   pp211−213 「 救いについての根本的な相違点  ・・・・親鸞が仏教者である以上、その信仰の土台は、阿弥陀にしても、本願にしても、極楽浄土にしても、それらは、いずれも歴史性を伴う現実的な性質のものではありません。それらはいわば、信仰の帰結である悟りの境界が生み出した、宗教的心象に属するものでしょう。
 それに対し、パウロによって代表される新約聖書の救済観は、あくまで人類の歴史の中に実際に現れたイエス・キリストによるものであり、神からの直接の福音に他ならないのです。・・・・」

7.救いの結果
問21 キリストの救いにはどのようなご利益がありますか?
答   キリストによる救いの結果(いわばご利益)には、以下のものがあります。
   罪の赦し    
使徒13:38−39(p234) 「13:38 ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。
13:39 モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」
使徒10:43(p228) 「10:43 イエスについては、預言者たちもみな、この方を信じる者はだれでも、その名によって罪の赦しが受けられる、とあかししています。」

   信仰義認  
ローマ4:21−25(p271) 「4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。
4:22 だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。
4:23 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、
4:24 また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。
4:25 主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」

   死の問題の解決 
へブル2:14−15(p391) 「2:14 そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
2:15 一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」
ヨハネ5:24(p166) 「5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」

   新生      
第1ペテロ1:3(p415)「1:3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」

   身体の贖い 
ローマ8:23(p276)「 8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」

   神との和解 
ローマ5:11 「5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」
 コロサイ1:19−22(p358) 「1:19 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、
1:20 その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。
1:21 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、
1:22 今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」

   神の子とされる 
ヨハネ1:12(p157)「1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」

     永遠のいのち  
ヨハネ3:16 「3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

   天国に行ける  
ピリピ3:20(p354) 「3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」

8.引用資料及び参考資料
  1)ハロルド・リンゼル、チャールズ・ウッドブリッジ共著 山口 昇 訳 
          聖書教理ハンドブック いのちのことば社発行 (1962)
  2)ジョン・マーレー 著 松田 一男、宇田 進 訳 キリスト教救済の論理
                           小峯書店 発行(1972)
  3)森山 諭 著 神道と仏教とをただす 
    <日本人の宗教意識とキリスト教 ― 上巻 >  
          荻窪栄光教会出版部 発行 (1981)
  4)渡辺 暢男(のぶお)著 どこがどう違うキリスト教と仏教 
                ニューライフ出版社 発行(1985)
  5)渡辺 暢男(のぶお)著 新約聖書と歎異抄 
      本当の救いはどこにあるのか   PHP研究所 発行 (1991)
  6)浄土真宗聖典普及会編 解説 礼拝聖典  百華苑発行 (1977)
   7)改訂新版「世界の宗教と経典」総解説 自由国民社発行 (1989)
  9) 山本 杉広 著 人生の指針シリーズ@ お経と聖書の成り立ち
                        オリーブ社 発行 (1991)
  10)山本 杉広 著 人生の指針シリーズA お経と聖書が教える 人間
                        オリーブ社 発行 (1991)
  11)山本 杉広 著 人生の指針シリーズB お経と聖書が教える 救い
                        オリーブ社 発行 (1991)
  12)山本 杉広 著 人生の指針シリーズC お経と聖書が教える 死後
                        オリーブ社 発行 (1991)
  13)新聖書辞典 いのちのことば社 発行 (1985)
  14)渡辺照宏 著 仏教  岩波新書  岩波書店発行 (1956)
  15)日本聖書刊行会発行の新改訳聖書から引用
  16)今泉淑夫 編 事典 日本の名僧 吉川弘文館 発行(2005)