聖書教理問答 イロハシリーズ                                 戻る
イロハシリーズ28 聖書のイロハ6

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前回の要約
今回の要約
本文
四 霊感は聖書の“言葉”と密着している
五 聖書の人間性
六 聖書は神の言葉である
七 聖書は無謬である
八 聖書は信仰と生活の規範的権威である
九 聖書は罪人を救い、教会を導く光として「十分」かつ「明瞭な」書である
一〇 聖書の中心目的は、人々にキリストを証し、キリストのみ名によって救いといのちとをあたえることである
一一 聖書と「聖霊の内的証明」(カルヴァン)
一二 教会は聖書の「守り手」(英国教会「三十九箇条」である
参考資料


 礼拝勧話 イロハシリーズ28 聖書のイロハ6b   悳 昭彦  2005年 04月 24日
前回の要約
  11)宇田 進 著 総説 現代福音主義神学  いのちのことば社
T 第三章 キリスト教と神の啓示  第六節 福音主義教会における聖書に関する十二項 一 − 三
 「一 聖書はすべて“神の霊感”によるものである」
問49 聖書観全体の根本を言い表している代表的聖句はなんですか?
答: Uテモテ3:16「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」です。
問50 「神の霊感によるもの」と訳出されているギリシャ語の原意は何ですか?
答: 「神の霊感によるもの」と訳出されているギリシャ語の原意は、「神によって吹き出されたもの」を意味しています。
問51 「霊感」は、聖書を読む読者に対して実存的(現実)に作用する聖霊の働きかけのことですか? また、聖書記者たちに与えられた、文筆家が経験するある種のインスピレーションのようなものですか? あるいは、聖書の構成要素となっている諸概念についてのものですか?
答: 霊感はそういうものではなく、聖書という“文書”そのものについて言われているものです。
問52 霊感には軽重の程度ということは言われますか?たとえば、歴代誌とローマ人への手紙を比べたとき、両者とも神の霊感によるものであるという事実において、何か差異とか軽重の程度ということは言われえますか?
答: 神の啓示には多くの層や軽重の差異が存在するが、霊感は一つの事実であって、軽重の程度ということは言われない。たとえば、歴代誌はローマ人への手紙に比して信仰機能上ある種の限定をもって見られるとしても、両者とも神の霊感によるものであるという事実においては、何ら差異とか軽重の程度ということは言われえません。
 「二 霊感は聖書全体に対するものである」
問53 霊感は聖書全体に対するものですか?あるいは聖書は単にある部分だけ霊感(部分霊感)されたものですか?
答: 聖書は単にある部分だけ(部分霊感)ではなく、その全体が神の霊感による一つの有機物、一つのまとまりをもった啓示的証言文書であります。
問54 聖書の中に救済に直結した部分と救済に直結していない部分とか、教理的部分と歴史記述的部分とか、中心的部分と派生的部分といった二元論的区別や軽重の程度を設けて、霊感の有無、軽重を論ずることはできますか?
答: 聖書の中に救済に直結した部分と救済に直結していない部分とか、教理的部分と歴史記述的部分とか、中心的部分と派生的部分といった二元論的区別や軽重の程度を設けて、霊感の有無、軽重を論ずることはできますません。
 「三 霊感は“原典”について言われる」
問55 「霊感は“原典”について言われる」とのことですが、その聖書的根拠は何ですか?
答: ペテロの手紙第二、一章21節において「 ・ ・ ・ 預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされたひとたちが、神からのことばを語った ・ ・ ・ 」と記されている。「聖霊によって動かされた」(ギリシャ語 ??????????)とは聖霊に運ばれたという意味であり、第二テモテ3:16の「神の霊感による」と同一のことであると言える。その「人たち」とは原典の記者たちをさしていると言えます。その「人たち」が書き記したものが、原典であり、これが霊感を受けたものに他なりません。
問56 霊感された原典と霊感されない写し(写本)は区別されるべきですか?また、区別されるべきであるとした場合、われわれが手にしている写本にもとづいた聖書本文は信頼に値しますか?
答:?歴史の教会は、霊感された原典と霊感されない写しという区別をいわば共通の見解としてきました。
聖書本文の信頼性に関しては、旧・新約のテキストについての学者達の研究によって、われわれが手にしている聖書本文の信頼性が解き明かされています。
以上は前回のおさらい




 礼拝勧話 イロハシリーズ28 聖書のイロハ6b   悳 昭彦  2005年 04月 24日
今回の要約
 11)宇田 進 著 総説 現代福音主義神学  いのちのことば社
T 第三章 キリスト教と神の啓示  第六節 福音主義教会における聖書に関する十二項 四 − 一二

 「四 霊感は聖書の“言葉”と密着している」
問57 聖書は神の真理が確実かつ適正に文書化されたものである、ということをわれわれに保証するものはなんですか?
答: 聖書は神の真理が確実かつ適正に文書化されたものである、ということをわれわれに保証するものは言語霊感そのものです。
 「五 聖書の人間性 聖書の成立には、神と人間とによる「有機的な合流あるいは同流」(confluent)と呼ばれる
   連合活動が顕著である──“聖書の人間性”」
問58 聖書が神の霊感によるということは、聖書が「天から降ってきた神の宣託」のようなものであることを意味しますか?また、聖書が記される際の、聖書記者の役割は、無視できるほど軽いものですか? 聖書は聖書記者の人間性を反映していませんか?
答: 聖書が神の霊感によるということは、聖書が「天から降ってきた神の宣託」のようなものであることを意味しません。 また、聖書が記される際の、聖書記者の役割は、軽いものどころか、大変重いものです。 聖書は聖書記者の人間性を忠実に反映しています。正に、文は人なり、といわれるとおりです。
 「六 聖書は神の言葉である」
問59 「聖書は神の言葉である」という理解は、比較的、新しい見解ですか?あるいは、昔からの見解ですか?
答:「聖書は神の言葉である」という理解は、昔からの見解です。
問60 「聖書は神の言葉である」という理解は、科学万能ともいわれる現代においては“前近代的なもの”であって、聖書を人間の宗教書とみなす見解と調和させるような試みがなされてもよいのではありませんか?
答: 「聖書は神の言葉である」という見解と「聖書を人間の宗教書」とみなす見解は、水と油のように異質なものであって、この相反する見解を調和させることはできないし、そのようなことをすることは、「聖書を神の言葉」から「人間の言葉」に引き降ろすことに他なりません。
 「七 聖書は無謬である」
問61 旧約聖書の記者、主イエス、古代教会の教父たち、中世のスコラ主義者たち、十六世紀の宗教改革者たち、そして近代の福音主義諸教会はみな、聖書には誤りがないものとしてきましたか?
答:旧約聖書、新約聖書の記者たち、主イエス・キリストから福音主義諸教会に至る人達は、神の言葉への全幅の信頼を表明してきています。
問62 聖書の信頼性すなわち聖書の「無謬性」・「無誤性」は、諸信条ではっきりうたわれてきましたか?
答:聖書の信頼性すなわち聖書の「無謬性」・「無誤性」は、上に述べたように、「ベルギー信条」(1961)や「ウェストミンスター告白」(1647)などの信条ではっきりうたわれてきました。十四世紀にウィクリフも聖書を「信仰の無謬の基準」と呼んでおります。
 世界の大多数の福音派は聖書の無謬性を重要視しています。なぜなら、信頼できる無謬の聖書は、無限にして永遠の神と有限にして罪深いわれわれ人間とを結ぶ ”認識上の架け橋”と見られるからです。
問63 世界中のすべてのクリスチャンと称するひとたちが、すべて聖書の無謬性を認めているのですか?
答:世界中のすべてのクリスチャンと称するひとたちが、すべて聖書の無謬性を認めているわけではありません。
たとえば、上述のような新しい傾向、「目的の無誤性」や「限定的無誤性」も登場してきています。




  「八 聖書は信仰と生活の規範的権威である」
問64 「聖書は信仰と生活の規範的権威である」とされてますが、わたしたちの教会は聖書に対してどのように、応じるべきでしょうか?
答: 教会はつねに神の言葉に立ち返り、それを基準として誤りを正すとともに、み言葉とみ霊による霊的な刷新とリバイバルを求めなければなりません。
 「九 聖書は罪人を救い、教会を導く光として「十分」かつ「明瞭な」書である」
問65 聖書の属性としての「十分性」と「明瞭性」とはなんですか?
答: 前者の「十分性」とは、基本的には、救いとキリスト者生活について神の民が知らなければすべてのことは、聖書の中に備えられているという理解であります。
 後者の「明瞭性」については、ウェストミンスター信仰告白は次のような的確な理解を示している。同告白は、「しかし、救いのために知り信じ守る必要のある事柄は、聖書のどこかの箇所に非常に明らかに提示され、開陳されているので、学識ある者だけでなく、無学な者も、通常の手段を正当に用いるならば、それらについての十分な理解に達することができる」(同告白一・七)、と表明しています。
 「一〇 聖書の中心目的は、人々にキリストを証し、キリストのみ名によって救いといのちとをあたえることである」
問66 聖書を考える場合、「神の霊感による」という本質論のみに終始するだけで十分でしょうか?その他に、聖書の書かれた目的や聖書の役割についても併せて考えたほうが良いのではありませんか?
答:そのとおりです。イエス・キリストこそ、聖書の中心であり目的であります。聖書には教えと戒めと矯正と義の訓練とのためといった建徳的役割も重要です。
 「一一 聖書と「聖霊の内的証明」」 
問67 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れることが出来ますか?
答:生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れることが出来ません。理由は、御霊のことは御霊によってわきまえるものであり、聖霊が人の内側で働くときに、霊に属することを知ることができるようになるのであります。
クリスチャンになり、内住の御霊によって霊の世界のことが見えるようになるわけです。
 「一二 教会は聖書の「守り手」(英国教会「三十九箇条」である」
問68 聖書は書棚に積まれたままであって良いものでしょうか? あるいは、翌週の聖日まで、車に積んだままして置いてよいものでしょうか?聖書を読むことについても、サンデー・クリスチャンであることを通しますか?
答: 聖書の読書法は積読であってはなりません。積読は、定期預金ではないので積んでも利子はつきません。したがって、積得ではなく積損になります。私たちも使徒時代のベレヤ教会に倣って、「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとうりかどうかと毎日聖書を調べ」たいものです。










本文
参考資料
11)宇田 進 著 総説 現代福音主義神学 (2002年10月1日)いのちのことば社pp219−246から
   T 第三章 キリスト教と神の啓示 第六節 福音主義教会における聖書に関する十二項 四 − 一二
                      
 「四 霊感は聖書の“言葉”と密着している
 今日、「言語霊感」(verbal innspiration)の考えは、しばしば「機械的霊感」(mecanical inspiration)と同一視されたり(日本の教会の場合顕著)、前述した神の言葉を“出来事化”する実存論的神学や、ポスト・モダンの言語不信任論に影響されて批判の的となりがちであるが、ジェームス・スマートは『聖書の解釈』(1961)の中で次のように言っている。「神がわれわれに語ろうとし、事実語られるのは、聖書のみ言葉をとおしてであり、それ以外ではないので、言語霊感以外の霊感論は考えられない」と。」
 「霊感は、本来、神の語りかけの延長にほかならない「グラフェ−」、すなわち啓示的文書としての「聖書」(ローマ1:2)にかかわる点から、言葉や言語との関係は必然的と言える。時として“事柄の供給”と“言葉の供給”を対置させる考えに立って、「思想霊感」が主張されることがあるが、言うまでもなく思想と言語は不可分関係にある。言葉は思想における協約的(協約=協議して約束すること)記号組織であり、確実なコミュニケ−シオンにとって不可欠のものである。主イエスは、サタンに対処する際に、「神の口から出る一つ一つのことば」(マタイ4:4)を重視しておられる。言語霊感は、神の真理が確実かつ適正に文書化されたという事実をわれわれに保証するものであると言える(ノーマン・ガイスラー編『無謬性』1980所収のジェームス・パッカーの論文「人間言語の妥当性」は、聖書の言語観を明らかにしている。)」
問57 聖書は神の真理が確実かつ適正に文書化されたものである、ということをわれわれに保証するものはなんですか?
答: 聖書は神の真理が確実かつ適正に文書化されたものである、ということをわれわれに保証するものは言語霊感そのものです。

 「五 聖書の人間性 聖書の成立には、神と人間とによる「有機的な合流あるいは同流」(confluent)と呼ばれる
   連合活動が顕著である──“聖書の人間性”
 以上のような霊感論の強調は、しかしながら聖書が「天から降ってきた神の宣託」であるとか、聖霊はいわゆる真の人間性を有しない「仮現的な(docetic)聖書」を教会に与えたということを意味しない。
 まず、聖書の証言に目をとめると、「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある」 1(Uサムエル23:2)というダビデの言葉は、「主の霊」と「私」ダビデとの関わり合い、すなわち、神的側面と人的側面の相互の関与、両者の協動の事実を伝えている。エレミヤ書三六章しおいて、エレミヤがバルクに向かって「あなたが私の口述によって巻物に記した主のことば」 2(エレミヤ3:6。参照エレミヤ3:8、11)と語っており、また「バルクは ・ ・ ・ その書物からエレミヤのことばを読んだ」(10節)としるされていることは、主の言葉の伝達と文書化における預言者の主体的関与の事実を物語っている。同様に、「イスラエルについては、イザヤがこう叫んでいます」 3(ローマ9:27)や、「イザヤは大胆にこう言っています」4(イザヤ10:20)という記述は、イザヤによる主体的な活動を力強く伝えている。
 一方、5 ルカ1:1−4を見ると、復活後に形成された諸種の教会伝承をルカが丹念に調べ上げていることがわかある。そこには諸資料の収集と選別、諸伝承の価値判断、そして自ら最終的な決定をくだすなどの主体的活動が読み取れる。と同時に、彼はその過程において「聖霊に動かされた」 6(Uペテロ1:21)のである。パウロもコリントの人々に「私があなたがたに書くことが主の命令であることを認めなさい」 7(Tコリント14:37.参照2:13)と書いている。パウロによる主体的な執筆活動も明らかである。ローマ人への手紙一つをとっても、「いなずま」のように天空から現れたものではなく、「パウロに与えられた長い神との交わりの経験」(J・ベイリー)の中から、また「生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方」 8(ガラテヤ1:15)と記されているように、長い「神の摂理的準備」(M・エリクソン)を背景にして執筆されたのである。」
聖句:
1(Uサムエル23:2)23:2 「主の霊は、私を通して語り、そのことばは、私の舌の上にある。
5 ルカ1:1−4 1:1 私たちの間ですでに確信されている出来事については、(V.2挿入)多くの人が記事にまとめて書き上げようと、すでに試みておりますので、
1:2 初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人々が、私たちに伝えたそのとおりを、
1:3 私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。尊敬するテオピロ殿。
1:4 それによって、すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと存じます。
6(Uペテロ1:21)1:21 なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです。
8(ガラテヤ1:15)1:15 けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、

問58 聖書が神の霊感によるということは、聖書が「天から降ってきた神の宣託」のようなものであることを意味しますか?また、聖書が記される際の、聖書記者の役割は、無視できるほど軽いものですか? 聖書は聖書記者の人間性を反映していませんか?
答: 聖書が神の霊感によるということは、聖書が「天から降ってきた神の宣託」のようなものであることを意味しません。 また、聖書が記される際の、聖書記者の役割は、軽いものどころか、大変重いものです。 聖書は聖書記者の人間性を忠実に反映しています。正に、文は人なり、といわれるとおりです。

 「六 聖書は神の言葉である
歴代の教会は、神の霊感によって与えられた聖書は「神のことば」(マルコ7:13)であると告白してきた。新約聖書は、旧約聖書を「主が ・ ・ ・ 言われた事」(マタイ1:22)、「聖霊が語られたこと」(使徒4:25−26、28:25)と見ており、ガラテヤ人への手紙三章八節では、聖書は神の言葉であると言っている。カルヴァンは、新約の使徒たちにふれ、「使徒は聖霊の確実で・正式の公証人のようなものであり、したがって、かれらの書いたものは神の宣託として受け取らねばならない」(『キリスト教綱要』W・八・九)と明言しているほどである。「聖書は神の言葉である」という
理解は、実は歴代の教会の共通した告白、すなわち「教会教理」(ウォーフィールド)であった。以上のような立場は、聖書と神の言葉の「直接的同一性」をみとめる立場といわれる。」
聖句:
「神のことば」(マルコ7:13)7:13 こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」
「主が ・ ・ ・ 言われた事」(マタイ1:22)、1:22 このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。
「聖霊が語られたこと」(使徒4:25、28:25)
使徒4:25 あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。
使徒28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。
「聖書は神の言葉である」ガラテヤ人への手紙三章八節 3:8 聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。
問59 「聖書は神の言葉である」という理解は、比較的、新しい見解ですか?あるいは、昔からの見解ですか?
答:「聖書は神の言葉である」という理解は、昔からの見解です。

 「しかし、このような見解とは対照的に、今日、この見解を“前近代的なもの”として捨象し、聖書を「人間の作品」と見る見解が存在している。次のジェームズ・バーはこの立場を代表するものの一つである。 ・ ・ ・ (中略)
 ところで、聖書を神の言葉であると告白する歴史的な福音主義キリスト教の直接的同一性の立場の対極をなすものが、聖書を全面的に人間の宗教書とみなすバーなどによって代表される自由主義の伝統である。こうした状況の中で、両者に、すなわち自由主義と福音主義の見解に、それぞれみとめられる真理契機を一つの新しい形で綜合しようとする「第三の道」と呼ぶことのできる聖書観が提唱されてきた。それがのちにとりあげるカール・バルトによって代表される見解である。」
問60 「聖書は神の言葉である」という理解は、科学万能ともいわれる現代においては“前近代的なもの”であって、聖書を人間の宗教書とみなす見解と調和させるような試みがなされてもよいのではありませんか?
答: 「聖書は神の言葉である」という見解と「聖書を人間の宗教書」とみなす見解は、水と油のように異質なものであって、この相反する見解を調和させることはできないし、そのようなことをすることは、「聖書を神の言葉」から「人間の言葉」に引き降ろすことに他なりません。

 「七 聖書は無謬である
 神がご自身の啓示を与え、それの文書化を導き、啓示的文書として聖書を人間に与えられたなら、自然な展開として、われわれは与えられた聖書の信頼性に深い関心を抱かざるをえない。この聖書について、旧約の詩人は、「あなたの仰せはことごとく真実です」 1(詩篇119:86)、「みことばのすべてはまことです」 2(詩篇119:160)、「あなたの仰せはことごとく正しい」 3(詩篇119:172)と告白している。4 箴言30:5−6では、「神のことばは、すべて純粋 ・ ・ ・ 神のことばにつけ足しをしてはならない」と記されている。一方、救い主は大祭司的祈りの中で、「あなたのみことばは真理です」 5(ヨハネ17:17)。 ・ ・ ・ と言って、神の言葉への全幅の信頼を表明している。(中略)
  ・ ・ ・ 教会の歴史を回顧すると、古代教会の教父たち、中世のスコラ主義者たち、十六世紀の宗教改革者たち、そして近代の福音主義諸教会の間には、聖書の霊感と権威ならびに聖書の信頼性に関して驚くばかりの一致があったことを知らされる(ジョン・ウッドブリッジ『聖書の権威』1982、およびロバート・ブルウス『聖書の霊感──十七世紀ルター派協議学者たちの神学に関する一研究』1955参照)。」
聖句:
5(ヨハネ17:17)17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

問61 旧約聖書の記者、主イエス、古代教会の教父たち、中世のスコラ主義者たち、十六世紀の宗教改革者たち、そして近代の福音主義諸教会はみな、聖書には誤りがないものとしてきましたか?
答:旧約聖書、新約聖書の記者たち、主イエス・キリストから福音主義諸教会に至る人達は、神の言葉への全幅の信頼を表明してきています。

 「聖書の信頼性の問題は、歴史的には聖書の「無謬性」(infallibility)とか、「無誤性」
(innerancy)と呼ばれてきた。 ジェームス・パッカ−によると、前者の「無謬性」の使用は、少なくとも英国宗教改革の時代にまでさかのぼることができる。たとえば、十四世紀にウィクリフは聖書を「信仰の無謬の基準」と呼んでおり、その他の人もこの表現を使っている。
 信条では、「ベルギー信条」(1961)第七条「聖書の完全なることについて」と信条では、「ウェストミンスター告白」(1647)第一章「聖書について」の第九項でそれぞれ「無謬の(infallible)基準」という形で用いられている。
やがて一九世紀後半に入ると、聖書の歴史的文献的批評が盛んになり、聖書の信憑性を疑問視する傾向が増大する状況の中で、後者の「無誤性」(ラテン語 inerrantia)が使われるようになった。カトリック側の一例を挙げると、教皇レオ十三世の回勅 ProvidentissimusDeusu(1893)の「聖書の教授にあたって従う規範」の中で、聖書について、「聖霊の霊感によって書かれたものである。そして、神の霊感によるものは、少しの誤りもありえない。実は霊感はその本質として、すべての誤りを除くだけではなく、最高の真理である神は、どのような誤謬の作者でもありえない」と表明されている(詳しくは前掲の『カトリック教会文書資料集』参照)。」
問62 聖書の信頼性すなわち聖書の「無謬性」・「無誤性」は、諸信条ではっきりうたわれてきましたか?
答:聖書の信頼性すなわち聖書の「無謬性」・「無誤性」は、上に述べたように、「ベルギー信条」(1961)や「ウェストミンスター告白」(1647)などの信条ではっきりうたわれてきました。十四世紀にウィクリフも聖書を「信仰の無謬の基準」と呼んでおります。
 「世界の大多数の福音派は聖書の無謬性を重要視しています。なぜなら、信頼できる無謬の聖書は、無限にして永遠の神と有限にして罪深いわれわれ人間とを結ぶ ”認識上の架け橋”と見られるからです。」

 「だが、そうした議論の中で次のような新しい傾向も登場してきている。一つは、聖書の中心的目的は人々を救い主イエス・キリストによる救いと彼との人格的な関係に導き入れることであり、聖書はこの目的を間違いなく確実に果たすと考える「目的の無誤性」(J・ロジャースおよびD・マッキム共著『聖書の権威と解釈』1979参照)を主張する機能論的な立場である。今一つは、「限定的無誤性」(Limited inerranncy)と呼ばれる見解である。これは無誤性を聖書の救済的、教理的部分(聖書の歴史的、地誌的、時代文化的、科学的言及の部分と区別される)に限定するダニエル・フラーなどの立場である(『復活の信仰と歴史』1965参照)。しかしキリストと使徒たちは、前述のとおり、旧約の細かな点を重視している(ヨハネ10:34)。」「10:34 イエスは彼らに答えられた。「あなたがたの律法に、『わたしは言った、あなたがたは神である。』と書いてはありませんか。」
問63 世界中のすべてのクリスチャンと称するひとたちが、すべて聖書の無謬性を認めているのですか?
答:世界中のすべてのクリスチャンと称するひとたちが、すべて聖書の無謬性を認めているわけではありません。
たとえば、上述のような新しい傾向、「目的の無誤性」や「限定的無誤性」も登場してきています。

  八 聖書は信仰と生活の規範的権威である (中略)
 歴史の教会は、神の言葉である聖書こそ、神の民である教会の信仰の唯一の規範であり、その生命と組織を形成するうえでの権威であり原動力であると信じてきた。しかし、教会はつねに「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」(エペソ6:12)の攻撃にさらされている事実を忘れてはならない。そのため、地上の教会は、誤説、背教、倫理的堕落、妥協、無感動状態、迷信、形式主義、形骸化などへの転落に突き当たるのである。「改革された教会はつねに改革され続けなければならない」と言われてきたように、教会はつねに神の言葉に立ち返り、それを基準として誤りを正すとともに、み言葉とみ霊による霊的な刷新とリバイバルを求めなければんらないのである。」
問64 「聖書は信仰と生活の規範的権威である」とされてますが、わたしたちの教会は聖書に対してどのように、応じるべきでしょうか?
答: 教会はつねに神の言葉に立ち返り、それを基準として誤りを正すとともに、み言葉とみ霊による霊的な刷新とリバイバルを求めなければなりません。

 「九 聖書は罪人を救い、教会を導く光として「十分」かつ「明瞭な」書である
聖書の属性としての「十分性」と「明瞭性」の告白は、「聖書のみ」(sola scriptura)というプロテスタント的原則と不可分のものである。
 前者の「十分性」とは、基本的には、救いとキリスト者生活について神の民が知らなければすべてのことは、聖書の中に備えられているという理解である。前掲のテモテへの手紙第二、三章一五節は、「聖書は ・ ・ ・ キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです」、と言っている。また、同十七節では、聖書はすべての良い働きのために神の人たちを十分に整えるとも言っている。 ・ ・ ・ (中略)
 後者の「明瞭性」について、ウェストミンスター信仰告白は次のような的確な理解を示している。同告白は、ペテロの手紙第二、三章十六節を参照箇所としてあげながら「聖書の中にあるすべての事柄は、それ自体で一様に明白でもなく、またすべての人に一様に明らかでもない」と述べたうえで、「しかし、救いのために知り信じ守る必要のある事柄は、聖書のどこかの箇所に非常に明らかに提示され、開陳されているので、学識ある者だけでなく、無学な者も、通常の手段(「聖書の類比」の方法をあげることができよう──筆者註)を正当に用いるならば、それらについての十分な理解に達することができる」(一・七)、と表明している。(中略)
  ・ ・ ・
われわれは、聖書の十分性と明瞭性の否認は、とりもなおさず信仰の大原則である「聖書のみ」の否定につながるという事実をはっきりと確認しておかねばならない。」
聖句:
テモテへの手紙第二、三章一五節、十七節 3:15 また、幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
3:17 それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。

問65 聖書の属性としての「十分性」と「明瞭性」とはなんですか?
答: 前者の「十分性」とは、基本的には、救いとキリスト者生活について神の民が知らなければすべてのことは、聖書の中に備えられているという理解であります。
 後者の「明瞭性」については、ウェストミンスター信仰告白は次のような的確な理解を示している。同告白は、「しかし、救いのために知り信じ守る必要のある事柄は、聖書のどこかの箇所に非常に明らかに提示され、開陳されているので、学識ある者だけでなく、無学な者も、通常の手段を正当に用いるならば、それらについての十分な理解に達することができる」(同告白一・七)、と表明しています。

 「一〇 聖書の中心目的は、人々にキリストを証し、キリストのみ名によって救いといのちとをあたえることである
聖書論を考究する際に、「神の霊感による」という本質論のみに終始するのでは不十分である。その大切な本質論は、「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせる」(Uテモテ3:15)(前出)ものであること、また、「聖書は ・ ・ ・ 教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」(同十六節)(前出)という聖書の目的論および機能論と密着させ、結合されて初めて本来の意味をもつようになることを銘記すべきであろう。
 歴史の教会は、イエス・キリストこそ、聖書の中心であり目的であると理解してきた。キリストは全聖書の真の意味を解く解釈上の鍵であると見てきた。事実、新約聖書は旧約聖書をキリスト論的視点から解釈している。われわれは書き記された神のみ言葉において、「いのちを得」させる活ける神の言葉なる主に出会うのである(ヨハネ20:31)。」
聖句:
(ヨハネ20:31)20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
問66 聖書を考える場合、「神の霊感による」という本質論のみに終始するだけで十分でしょうか?その他に、聖書の書かれた目的や聖書の役割についても併せて考えたほうが良いのではありませんか?
答:そのとおりです。イエス・キリストこそ、聖書の中心であり目的であります。聖書には教えと戒めと矯正と義の訓練とのためといった建徳的役割も重要です。

 「一一 聖書と「聖霊の内的証明」(カルヴァン)
 ・ ・ ・
 コリント人への手紙第一の二章は ・ ・ ・(中略) さらに10節では「神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです」と明言している。このように御霊に属することが御霊によって啓示された場合に、生来の人間がとりうる道は何であろうか。
この点についてパウロは14節で、「生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。 ・ ・ ・ それを
悟ることができません。」なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです」と述べることによって、霊の世界の大原則を開陳している。パウロによると、聖霊が人の内側で働くときに、「心の目がはっきり見えるようになって(ギリシャ語 pefwtismevnou"──完了時制の受動態の分詞。これはあることがなされ、その結果が続いていることを示す)」(エペソ1:18)、霊に属することを知ることができるようになるのである(19節も参照)。」
聖句:
コリント人への手紙第一の二章14節  生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
(エペソ1:18、19)1:18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、
1:19 また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

問67 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れることが出来ますか?
答:生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れることが出来ません。理由は、御霊のことは御霊によってわきまえるものであり、聖霊が人の内側で働くときに、霊に属することを知ることができるようになるのであります。
クリスチャンになり、内住の御霊によって霊の世界のことが見えるようになるわけです。

 「一二 教会は聖書の「守り手」(英国教会「三十九箇条」である
英国教会の「三十九箇条」(1563)の二十条を見ると、教会は聖書の「守り手」(“a Keeper of 
Holy Writ”)である、と告白されている。
 すでに見たとうり、聖書は神によって与えられたものであるが、旧約聖書において神の言葉がイスラエルに「ゆだねられた」ように 1(ローマ3:2)、教会は恵みとして与えられたその聖書の良き「守り手」すなわち「スチュアード」(管理者)であることを求められている。
 このことは、まず、教会に次のような責任を期待する。聖書は書棚に積まれたままであってはならない。教会はこの点であらゆる手段を用いて、教会全体と信徒一人ひとりの心と興味とを聖書に集めなければならない。そして教会は、「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとうりかどうかと毎日聖書を調べ」ていたというベレヤ教会に見られる状況 2(使徒17:10−12)を生みだしていく責任がある。 ・ ・ ・ (後略)」
聖句:
1(ローマ3:2)、3:2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。
2(使徒17:11−12) 17:11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
17:12 そのため、彼らのうちの多くの者が信仰にはいった。その中にはギリシヤの貴婦人や男子も少なくなかった。

問68 聖書は書棚に積まれたままであって良いものでしょうか? あるいは、翌週の聖日まで、車に積んだままして置いてよいものでしょうか?聖書を読むことについても、サンデー・クリスチャンであることを通しますか?
答: 聖書の読書法は積読であってはなりません。積読は、定期預金ではないので積んでも利子はつきません。したがって、積得ではなく積損になります。私たちも使徒時代のベレヤ教会に倣って、「非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとうりかどうかと毎日聖書を調べ」たいものです。
参考資料
11)宇田 進 著 総説 現代福音主義神学 (2002年10月1日)いのちのことば社pp219−246から
   T 第三章 キリスト教と神の啓示 第六節 福音主義教会における聖書に関する十二項
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